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4/16/2025, 8:10:40 AM

『春恋』

「ごめんね、課題が終わらなくてさ〜! 待った?」

「……うん、結構待ったな〜」

「ちょ、そこは待ってないって言うとこ! ……ごめんね、煌驥」

「冗談。本当はそんなに待ってないよ。行こうか」

「うん」

 高校に入学して二年。もう一年以上付き合っている彼女の春夏冬小夜と校門で待ち合わせをしていた。

 小夜は僕から見てもとても可愛い。それは僕の通う学校のカーストでもトップに位置するくらいには。

 大切に手入れされているのがわかる茶色のボブ(親の遺伝らしい)、整った顔立ちは見た人々を惹きつけてしまうほどに綺麗だ。誰にでも分け隔てなく接する明るい性格、勉強は少し苦手みたいだけど運動は得意な、そんな自慢の彼女が春夏冬小夜である。

「本屋だっけ?」

「そうそう! 最近出た漫画が面白くてさ! 買いたいと思って! ごめんね、付き合わせて」

「謝らないで。ほら、早く行こう」

「うん!」

 小夜がさりげなく手を繋いでくる。僕もそれを握り返し、歩き出す。

「今日学校でさ、叶《かな》ちゃんが授業中に寝てて先生に——」

「そうなんだ。大丈夫だったの?」

 小夜と雑談しながら本屋へ向かう。少しの時間でも共有出来たことが心の底から嬉しくて、それだけで笑顔になってしまう僕はチョロいのかなと思ってしまう。

 本屋に着いた小夜は目当ての漫画を買い、小夜の家へまた並んで歩く。

「送ってくれなくても良いよ?」

「大丈夫、送らせて。もう暗くなっちゃうしさ。小夜は可愛いから怖いんだ。信頼してないって訳じゃないんだけど、許して」

「……そ、そっか。なら、頼もうかな」

 空いている手で赤い顔を隠すその仕草は愛らしく、心臓が激しく脈打つ。

『…………』

 会話が無くなってしまい、僕達の間に静寂が訪れる。

「……ねえ、煌驥」

「ど、どうした?」

 いきなり話しかけられて動揺し、声が震えた。

「……ありがと」

「……うん、どういたしまして」

 片方の手から伝わる温かい感触は柔らかく、そして僕の手より小さくて、僕は笑みを浮かべた。

 ある春の夕暮れ、橙色に輝く街に恋の花が咲いている。

 
 

4/13/2025, 9:59:16 AM

『風景』

「まま〜! はやく〜!」

「千晴《ちはる》、走ると転んでしまいますよ」

 公園で走る一人の小さな女の子。そして仕方なさそうにしながらも楽しそうな笑みを浮かべる綺麗な女性。

 俺は大切なその二人のことを眺めながら先程買ったブラックコーヒーを飲む。

 今から数十年前、突然日本に謎の化け物達が襲来した。

 しかし一体一体はそこまで強力ではなく、銃などでも対応出来た。

 問題はそこではなく、化け物達の数だった。銃や人員が間に合わず、日本全土を襲い、殺人や建物を壊したりなどの壊滅的被害を与えた。特に首都ら辺は多く、他よりも更に多くの被害を出した。数は日本国民なんて軽く超えるだろう。

 そこで国の中枢は考えた。どうすればそいつらを駆逐出来るのか。考え、考え、一つの答えを出した。

 眼には目を、歯には歯を、なら化け物には? ……そう、化け物をぶつければいい。

 色々な研究を繰り返し、非人道的な事を幾度もこなした末に生まれたのが一人の小さな女の子だった。

 見た目はただの子供。戦うところなど想像も出来ない無力そうな女の子。

 だがその全貌は凄まじく、化け物数百体分を超越する身体能力、五感は突出している動物と肩を並べられるほど。反射神経や動体視力は最早研究者達の理想を超え、様々な殺しの技術をプロレベルで使用出来る。どうやってこのような人間を造ったのか理解が出来ないほどの者が生まれた。

 あのクズ研究者どもは銃などの武器、そして兵器《しょうじょ》を用いて化け物達を滅殺した。

 こうして日本に平和が訪れた訳だが、問題が出た。その少女をどうするか、だ。

 その研究者ども、いや、父さんとその仲間達は考えた。もし国に反逆すればまた危機に陥る。なら殺す? あんな化け物をどうやって?

 件の女の子は檻の中で悲しそうに座り、何もせずにただただ処遇を待っていた。

 その生きる希望を無くした闇を宿す瞳を、姿を見た瞬間にまだ幼かった俺は思案し、父さん達にこう言葉を突き刺した。ある陽の光が美しい時だった。

『俺はこの子を——』

「あなた。千晴が遊ぼうと呼んでいるので来てください」

 過去を振り返っていたら思いの外時間が経っていたらしく、美陽《みはる》が俺の目の前にいた。

 光の混ざった吸い込まれそうな瞳。整った目鼻立ちと百八十を超える長身。女性らしさを残しながらも引き締まった鍛えられている身体。彼女の綺麗な心を表しているかのような白いワンピース。ポニーテールにしている長い黒髪は宝石のように美しい。

「……ああ、わかった」

 美陽が俺に手を差し出してくる。その手を取って優しく握り、愛娘の元まで並んで歩く。

 人間らしい温かい手。その心地よい感覚に意図せず口角が上がる。

「どうしたのですか、唯翔《ゆいと》さん?」

「……いや、こうして君と歩けることが嬉しくて」

 素直に言葉を出すと、美陽はくすくすと可愛らしく笑う。

「唯翔さんのお陰です。まだ小さい唯翔さんがあの時の私に嫁にすると言ってくれた——」

「その話はやめてくれ。恥ずかしい」

 理解している。あの時の俺の言葉は偽善であると。一目惚れした訳でも、長い時を経て愛を育んだ訳でもないから。

 でもこうして隣にいてくれる。笑っていてくれる。この先の何十年もの刻を共に笑いながら歩んでくれようとしている。それだけで俺の偽善は容易く揺れ、変化した。

「でも私は嬉しかったんです。たとえ唯翔さんがどう思っていたとしても、ああ言ってくれたことが。兵器としてしか価値がなかった昔の私を必要としてくれた」

 美陽が俺と顔を合わせ、幸せそうにはにかんだ。

「大好きです、唯翔さん。あの時、私を救ってくれてありがとう御座いました」

「ッ!」

 泣きそうになるのをギリギリで堪える。その言葉は俺が望んだ言葉だから。

 次の瞬間、娘のいる方向から悲鳴が聞こえた。

 反射的にそちらを向くと、娘に向かって自動車が走っているのが見えた。もう十数メートルというところだろう。

 止める? いや無理だ。千晴から近いと言っても自動車が轢く方が先だろう。
 
 間に合わない、と直感で悟った時、俺の片手から温かさが消えた。

 バゴン! と音がした数秒後、俺が目を開けると、ある長身の女性が両手で車を止めていた。

「ふう。車が凹んでしまいましたが許してもらえるでしょう。千晴、怪我はありませんか? 目を離してしまってごめんなさい」

「ままも、すなのおしろつくる?」

「魅力的な提案ですがまずは唯翔さんも一緒に運転手と話を——」

 突如として呆然としていた俺の前に爆速で近づいてくる美陽。

「あ、あの……唯翔さん……」

「え? ああ……ごめん。何も行動出来なくて。本当にごめん。情けない男で」

「いえ、そうではなく……」

 目の前の美しい女性《つま》は不安そうに上目遣いで俺を見てくる。

「こんな私のこと、嫌いになりましたか……? 怖かったですよね……?」

 こんな、とは素手で自動車を止めた事だろう。確かに人間業ではない。……だが、余りにも見当違い過ぎる。

「なる訳ないし、怖くもないよ。ありがとう、千晴を守ってくれて」

 もう二度と、檻で見たあの瞳にはさせない。必ず幸せにする。

 だって——

「俺も大好きだよ、美陽」

 愛しい妻の不幸を願う馬鹿野郎が、どこにいる?

「……ありがとう御座います、唯翔さん。千晴を連れてきますので、その後運転手さんと話しましょう。気絶している為逃げられないので安心してください」

 いつも通りの笑みに戻った美陽は、また小夜の元へ駆けていく。その速度も人智を超えていて愛らしい。多分俺と話している時も千晴の近くに何かの気配がないかを探っていたのだろう。

 妻と愛娘が手を繋ぎ、話をしつつ俺の方へ歩いてくる。その顔にはどちらにも笑みが咲いていた。

 この目に映る「もの」は、輝いていた。

4/11/2025, 2:29:26 PM

『君と僕』

 君と僕はどうしてこんなにも違うのだろう。

 君は優しくて、綺麗で、勉強も運動も裁縫とかだってなんでも出来る。みんなには学校のマドンナとか言われているような人。

 僕は優しく無いし、特別イケメンという訳でも無い。勉強、運動は平均で、何をしても普通で。陰キャな僕はいつも教室の隅に居る。

 才能? 遺伝? 努力? 人間というのはどうしてこんなにも違うのかな?

 不条理だ、理不尽だって嘆いても誰にも響かない。どうせ僕の独り言だから。

 学校のマドンナであり高嶺の花にないものねだりをする僕は、きっと世界一身の程知らずで愚かな人間なのだろう。

 ……な、はずなのに——

「煌驥君……今日も一緒に帰らない……?」

 遠慮がちに僕へ話しかける人の名前は春夏冬小夜。何をしても結果を出して、クラスで常に中心にいる学校のマドンナ。

「いや! その! 用事があるとかなら断ってくれても良いから!」

 頬を紅く染め、慌てている君はとても可愛い。

 放課後の窓が通す橙色の光は、綺麗な彼女を更に魅力的にする。彼女の美しい髪を揺らす強い風に攫われ、爽やかながらも良い匂いが鼻へ流れていく。

 君に見惚れて固まっていると、彼女は鞄を持って立ち去りそうになっていた。

「ご、ごめんね! 私先に帰るから——」

「……いや、特に用事は無いよ……だから、小夜さんさえ良ければ……」

 急いでいるはずなのに小さい声で、しかも大切なことは言えない返答しか出来なかった自分に嫌気が差す。こんな自分が嫌いだ。変わりたいと思っているのに変われない自分がもっと嫌いだ。

「……! うん、なら良かった……! じゃあ一緒に帰ろう!」

 こんなにも情けない僕に君は太陽のような明るい笑顔を向けてくれる。その瞳に、笑顔に、温かい心に、何度救われてきたのだろうか。

 だからこそ一緒にいては駄目なんだ。このままじゃ僕がその光に魅入られてしまうから。

「……でも」

「うん? どうしたの、煌驥君?」

「……僕と居たら小夜さんが馬鹿にされてしまうよ……噂にでもなったら……」

 無意識に視線は下を向き、手には力が入る。僕は君の隣にいては駄目だと心の中で言い聞かせ、割り切る。

 先程より冷たくなった僕の手を何かが優しく包んだ。

「大丈夫。私が煌驥君と帰りたいだけだから気にしないで」

 また君が微笑む。僕と噂されて良いことなんてないはずなのに、どうして笑えるのだろう。

「ふふ、煌驥君はやっぱり優しいね」

「え?」

 言葉の意味がわからず、僕が首を傾げる。

「……僕は優しくないよ」

「ううん。優しいよ。さっきも私のこと気遣ってくれたし。この前は迷子になってた子供に話しかけてたり、困ってたお婆さんの荷物を持ってあげてたりしたよね」

「それは、普通のことだから」

「それを普通って言えることが凄いんだよ。話すことが苦手なのに、困っている人がいたら迷わずに手を差し伸べる事が出来る」

 君は窓の方へ歩き、窓から少し乗り出して校庭を覗く。数秒経った後乗り出した体を元に戻し、僕の方に向き直っていたずらめいた表情で口を開いた。

「……そんな君だから、私は——」

 不意に開いていた窓から風が入り、彼女の言葉を掻き消す。

「……ごめん。最後の方が聞こえなかった。もう一回言って貰えると助かるんだけど……」

 僕の言葉に返答はなく、目の前に立つ君は僕から顔を背けてしまった。心なしか耳が赤い気がする。

「ど、どうしたの……?」

 体調不良ならすぐに帰らなければならない。小夜さんが学校を休んだら色々な人が悲しんでしまうだろうし。

「な、なんでもない……!」

 僕に見せないように顔を背けながら君はこちらへ歩いてくる。

「ほら、早く帰ろう!」

「あの、ちょっ……手が……」

 突然手を握られ、顔が熱くなる。だがそんなのお構いなしというように僕の手を握ったまま廊下を走っていく。

 流石と言うべきかとても足が速く、僕の方がすぐに息切れしてしまう。

「あの……! 少しだけ、スピードを緩めて貰えると嬉しい、です……!」

 運動不足のインドア男子高校生による必死な呼びかけが功を奏したのか、君は止まってくれた。

「ご、ごめんね……僕あまり走るの得意じゃなくて……本当にごめん……」

「……私もごめんね。急に走っちゃって」

 気にしないで、となんとか言葉を出しながら息を整える。

「ねえ、煌驥君」

「ど、どうしたの?」

 振り向き、僕と目を合わせた君は天女のような笑顔を浮かべ、他でもない僕に言う。

「煌驥君は良い人だよ! 私が保証するから、自信持ってね!」

「……なんか、いきなりだね」

「ごめんね。でも言いたくなっちゃって」

「……あはは」

 君と僕は何もかもが違う。

 でも、君には君の、僕には僕の良いところがあるのだと、そう言ってくれているのかなと勝手に思うのだった。
 
「ありがとう、小夜さん。僕を観てくれて」

4/10/2025, 2:22:24 PM

『夢へ!』

 早春の候、という言葉を皆様はご存知だろうか。

 読み方はそうしゅんのこう……らしい。明確な時期は定められてはいないけど、主に二月上旬の立春から三月中旬まで使用する……らしい。

「早春の候の最後の漢字とか絶対読み方『そうろう』でしょ」

「お前は今を何時代だと思っているんだ?」

 私の意見を幼馴染の煌驥に言ったら馬鹿にされました。解せぬ。

 みんな手紙の最初の候をそうろうって読むでしょ? え、読まない? なら貴方は日本人ではありません。

「お前以外の全て日本人に謝れ。お前が間違えてんだよ」

「私は! 間違えていない!」

「どこから来るんだその自信は」

「この天才小夜ちゃんの優秀な脳からだよハート」

「自分でハートって言うなよ。それに手紙の書き方小テスト赤点の小夜さんがそれを言う資格はない」

「ぐっ……」

 確かに私はテストで赤点を取ったけど……というか赤点というなら前に数学と英語も取ったけど……!

「テストの結果だけで判断する君のような馬鹿な人間にはなりたくないね!」

「お前の今日の夕食もやし二本と煮干しな」

「この度は貴方様に失礼な事を言ってしまい、大変申し訳御座いませんでした。靴舐めでもなんでもするので今日の夕食は私の大好物にしろ」

「最後図々しいし人間としてのプライドは無いのか」

「無いです」

「即答か」

 はぁ、とため息を吐きながら「しょうがないな」と呟いている男の名は清廉煌驥。

 そんな軽口(私が謝罪しなければ本当に夕食が終わっていた)を叩き合えるくらいには仲の良い、そしてなんやかんやで優しい自慢の幼馴染だ。勉強や運動、料理だって出来るんだぞ。

 ちなみに普段は煌驥に勉強を教えて貰えるお陰で赤点は取っていない。小テストや数学達は煌驥の体調不良で教えてもらえなかったからだ。私は悪くない。……ごめんなさい。

「おい小夜。もうそろそろ確認しに行った方が良いんじゃないか?」

「……あれ、もうそんな時間?」

 私はリビングのソファから立ち、自室へと向かう。

「え〜と、私のプログラムちゃんは大丈夫かな〜」

 多分読者の皆様から見た私の印象はプライドが無いテスト赤点のカスだと思われているだろう。……泣きたくなってきた……

 まあそれはともかく! 実は私には秘密があるのです。これを知っているのは煌驥、あと私と煌驥の両親くらい。

 私は数年前に起業した。今では結構大きな会社になっていると思う。興味ないから今どれくらいかわからないけど。

 さっき私がゆっくりしていたのはもう仕事を終わらせていたから。ウイルスなどの不安要素は自動的に排除するプログラムを作ったし、社長だけど仕事量もそんなに多くないから楽なものだ。

 お金も一応稼いでいるし、現在の生活面での不安要素は無い。

 けど、私には絶対に叶えたい夢がある。それも出来るだけ早く叶えたい夢が。

 清廉煌驥。小さい頃からずっと一緒にいた、私の大切な人。

 煌驥と私はまだ幼馴染。そう、幼馴染なのだ。私が一人暮らしするのに家事が出来ないと心配した双方の両親が煌驥との同棲を提案した。……いや、してくれたのに。

 私は未だに踏み出せない。チキン? 臆病者? なんとでも言え。あいつは感情の起伏が薄かったり表情に出なかったりで好かれている自信が無いんだもん。貴方達にはわからないだろうよ!

 将来は私がお金を稼ぎ、家で煌驥とゆっくり過ごすという未来を望んでいるが、今の私では駄目だ。と言うか煌驥と居れるならもうなんでもいい。会社立ち上げたのも煌驥と暮らしながら手っ取り早くお金稼ぐ方法がこれだったからだし。

「打倒煌驥! 私は突き進むぞ! 夢へ!」

「俺を殺す気か?」

「私はチキンじゃない!」

「お前は人間だろう」

※※

「毎度、お前には世話を焼かされる」

「えへ」

「えへちゃうわ」

 掃除、洗濯、料理などなど、人が生活していく上で必要な事が何も出来ない幼馴染の小夜。

 そんな彼女を支える為、俺、清廉煌驥は昔から両親に色々なことを教わってきた。

 小夜は中学の時に飛び級をし、その後少し経ってから起業した。

 それなりに業績も安定し、最近はなんか凄いプログラムを作って「自由の女神とは私のことよ!」とか意味のわからないことを言っていた。

 毎日他の社員数人分のタスクをこなす(前に小夜と買い物していた時に会った社員さんにこっそり聞いた)小夜に俺が出来るのは家事などで請け負い、支えることだけ。

 いつか小夜に認められるような人間になり、告白するのが今の俺の夢だ。

 一応就活はするがそこら辺は小夜と相談をするつもりだ。……まあ、まだその土俵にも立てていない訳だが。

 小夜のように、俺も夢を叶える為に頑張るとしよう。
 
 

4/8/2025, 5:06:31 PM

『遠い約束』

 住んでいる部屋の鍵を閉め、大学へ行く為に歩を進める。小さいアパートだが何年も住んでいると愛着が湧いてくるのが人間というものだ。

 今日は一限なので朝早く家を出た。辺りに音は無く、曇天である事も加えてか少し気分が沈む。

 今は大学3年生。世間的には大手と呼ばれる会社への内定が決まった。嬉しいと思うと同時にまだ自分はこの程度なのかと思ってしまう。

 俺には幼馴染の女の子がいる。名前は春夏冬小夜といい、小、中、高校とクラスまで全部同じで、家族と同じくらい隣にいた子。

 大学が別れたのは喧嘩などではなく、彼女が上京したからだ。

 偶然地元に来ていた事務所の人が小夜をスカウトし、元々芸能界を目指していた彼女は上京を決意。結果、俺と離れたという訳だ。

 今、この世界で春夏冬小夜を知らない人間はいないだろう。女優を目指して一年未満で映画やドラマの主役に抜擢。完璧に役を演じきり、その後も芸能界の最前線を堂々と歩いている。賞もいくつか取っているし、その名は日本だけでなく世界にまで響いている。

 昔交わした約束も、今の小夜は覚えていないのだろう。芸能界はイケメンな人も多いだろうしな。

「まだまだだな、俺も」

「こんな朝早くからひとりごとかしら? 愉快ね」

「……は?」

 聞こえるはずのない、現実よりテレビで聞くことの方が多くなってしまった声。今は、聞きたくなかった人の。

 俺はゆっくり後ろを振り向くと、一人の女性が目に入った。

 美しく綺麗に伸びた黒髪に威圧されているかのような鋭い切れ目。そして凛とした態度は自分への大きな自信が垣間見える。数段大人びた顔立ち、そして雰囲気。だがその中にはどこか懐かしさを感じた。

「久しぶり、煌驥。二、三年振りね」

「……ああ、そうだな。久しぶり」

 何故彼女がここに居る? 小夜はただの学生じゃない。誰もが知っている名女優だ。もう仕事をバックれたしか可能性が——

「ぶっ殺すわよ」

「マジですんませんでした許してくださいてかなんで心読めてるんですかおかしいでしょ化け物ですか?」

「あ゛?」

「なんでもしますので許してください! 命だけは、命だけはご勘弁を! 土下座します! 靴舐めます!」

 小夜は何も言わず、じっとこちらを見つめる。

「……なんでも?」

「え……あ、はい。まあ……なんでもです」

 彼女は少し考える素振りを見せ、覚悟が決まった様子で口を開いた。

「なら、私と結婚して」

「……はい?」

 何を言っているんだ、この女は。結婚? 誰と誰が?

「……急に何を言って」

「なんでもって言ったじゃない。だから命令してるだけよ。私と結婚しなさい、煌驥」

 衝撃的過ぎて頭が働いていない。小夜は世界的名女優だぞ? 俺よりもスペックのある男には幾らでも会うだろうし会えるだろう。なのになんで俺を——

「約束があるの」

「ッ!」

「遠い、遠い約束が、ね。今日無理矢理時間作ってここに来たのもその約束を使って煌驥の隣を予約する為。覚えてないとは言わせない。煌驥なら覚えてるんでしょ?」

「なんの……事かな。俺にはわからな——」

「言わせないって言ってるでしょ。あんたのことならなんでもわかるから」

 怒気を孕んだ瞳が俺を射抜く。言い逃れは出来そうにない。……いや、元々小夜を相手に出来るなんて思っていなかった。

 俺が誤魔化そうとした理由は——

「もう少し、待ってほしい」

「……理由は?」

 声を絞り出す。手に汗をかいてしまう。だが覚悟を決める。小夜が本気であると伝わってしまったから。

「今の俺じゃ釣り合わない。俺には力も地位も全てが足りない」

「私は——」

「気にしないだろうな。知ってるよ。俺だってお前を見てきたんだから」

「…………」

「ごめん。でも俺が嫌なんだ。一番近くにいた幼馴染が頑張っているのに、俺が何もしないなんて」

 頭を下げ、出来るだけ誠意を伝える。大学なんて知らん。今は目の前にいる幼馴染の方が大切だ。

「約束は覚えているよ、勿論。そして絶対に果たしてみせる。だから待っててくれないか。今度は必ず俺が迎えに行く」

 これは決意であり新たな約束。何もない俺から、一番大切な幼馴染に向けての。

「すぐには無理だろうな。かなり待たせてしまうかもしれない。その間にお前が別のやつを好きになるかもしれない」

 己を縛り付ける為に彼女の瞳を見る。ずっと逃げてきた自分が前を向くように。

 小夜は呆れたように肩をくすめる。申し訳無い気持ちになるが、俺はそんなことを言える立場でもないので口をつぐんだ。

「また、遠い約束?」

「そう、なるかも。ごめん」

「ずっと待つわ」

 小夜が笑う。その笑みは諦観ではなく、底知れぬ想いが表れているようにみえた。

「一年でも十年でも、煌驥が死んでも私が死んでも、ずっと待つ」

「……随分と重いんだな、小夜は」

「最初に謝っておくわ。けれど、私はその人が一番幸せになれると思った道を選ぶべきだと思う。理想の形になれなかったとしてもね。私の場合はそれが貴方との結婚だっただけ」

「なら今よりもっと頑張らないとな」

「ええ、頑張って」

 本当に何年かかるかわからない。まだ大学は卒業していないし、したとしてもその会社で何年働けば良いかも定まっていない。

「大丈夫よ。遠い約束でも、貴方がそれを守ってくれるのなら。まあ、絶対に逃さないけれどね」

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