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『遠い約束』

 住んでいる部屋の鍵を閉め、大学へ行く為に歩を進める。小さいアパートだが何年も住んでいると愛着が湧いてくるのが人間というものだ。

 今日は一限なので朝早く家を出た。辺りに音は無く、曇天である事も加えてか少し気分が沈む。

 今は大学3年生。世間的には大手と呼ばれる会社への内定が決まった。嬉しいと思うと同時にまだ自分はこの程度なのかと思ってしまう。

 俺には幼馴染の女の子がいる。名前は春夏冬小夜といい、小、中、高校とクラスまで全部同じで、家族と同じくらい隣にいた子。

 大学が別れたのは喧嘩などではなく、彼女が上京したからだ。

 偶然地元に来ていた事務所の人が小夜をスカウトし、元々芸能界を目指していた彼女は上京を決意。結果、俺と離れたという訳だ。

 今、この世界で春夏冬小夜を知らない人間はいないだろう。女優を目指して一年未満で映画やドラマの主役に抜擢。完璧に役を演じきり、その後も芸能界の最前線を堂々と歩いている。賞もいくつか取っているし、その名は日本だけでなく世界にまで響いている。

 昔交わした約束も、今の小夜は覚えていないのだろう。芸能界はイケメンな人も多いだろうしな。

「まだまだだな、俺も」

「こんな朝早くからひとりごとかしら? 愉快ね」

「……は?」

 聞こえるはずのない、現実よりテレビで聞くことの方が多くなってしまった声。今は、聞きたくなかった人の。

 俺はゆっくり後ろを振り向くと、一人の女性が目に入った。

 美しく綺麗に伸びた黒髪に威圧されているかのような鋭い切れ目。そして凛とした態度は自分への大きな自信が垣間見える。数段大人びた顔立ち、そして雰囲気。だがその中にはどこか懐かしさを感じた。

「久しぶり、煌驥。二、三年振りね」

「……ああ、そうだな。久しぶり」

 何故彼女がここに居る? 小夜はただの学生じゃない。誰もが知っている名女優だ。もう仕事をバックれたしか可能性が——

「ぶっ殺すわよ」

「マジですんませんでした許してくださいてかなんで心読めてるんですかおかしいでしょ化け物ですか?」

「あ゛?」

「なんでもしますので許してください! 命だけは、命だけはご勘弁を! 土下座します! 靴舐めます!」

 小夜は何も言わず、じっとこちらを見つめる。

「……なんでも?」

「え……あ、はい。まあ……なんでもです」

 彼女は少し考える素振りを見せ、覚悟が決まった様子で口を開いた。

「なら、私と結婚して」

「……はい?」

 何を言っているんだ、この女は。結婚? 誰と誰が?

「……急に何を言って」

「なんでもって言ったじゃない。だから命令してるだけよ。私と結婚しなさい、煌驥」

 衝撃的過ぎて頭が働いていない。小夜は世界的名女優だぞ? 俺よりもスペックのある男には幾らでも会うだろうし会えるだろう。なのになんで俺を——

「約束があるの」

「ッ!」

「遠い、遠い約束が、ね。今日無理矢理時間作ってここに来たのもその約束を使って煌驥の隣を予約する為。覚えてないとは言わせない。煌驥なら覚えてるんでしょ?」

「なんの……事かな。俺にはわからな——」

「言わせないって言ってるでしょ。あんたのことならなんでもわかるから」

 怒気を孕んだ瞳が俺を射抜く。言い逃れは出来そうにない。……いや、元々小夜を相手に出来るなんて思っていなかった。

 俺が誤魔化そうとした理由は——

「もう少し、待ってほしい」

「……理由は?」

 声を絞り出す。手に汗をかいてしまう。だが覚悟を決める。小夜が本気であると伝わってしまったから。

「今の俺じゃ釣り合わない。俺には力も地位も全てが足りない」

「私は——」

「気にしないだろうな。知ってるよ。俺だってお前を見てきたんだから」

「…………」

「ごめん。でも俺が嫌なんだ。一番近くにいた幼馴染が頑張っているのに、俺が何もしないなんて」

 頭を下げ、出来るだけ誠意を伝える。大学なんて知らん。今は目の前にいる幼馴染の方が大切だ。

「約束は覚えているよ、勿論。そして絶対に果たしてみせる。だから待っててくれないか。今度は必ず俺が迎えに行く」

 これは決意であり新たな約束。何もない俺から、一番大切な幼馴染に向けての。

「すぐには無理だろうな。かなり待たせてしまうかもしれない。その間にお前が別のやつを好きになるかもしれない」

 己を縛り付ける為に彼女の瞳を見る。ずっと逃げてきた自分が前を向くように。

 小夜は呆れたように肩をくすめる。申し訳無い気持ちになるが、俺はそんなことを言える立場でもないので口をつぐんだ。

「また、遠い約束?」

「そう、なるかも。ごめん」

「ずっと待つわ」

 小夜が笑う。その笑みは諦観ではなく、底知れぬ想いが表れているようにみえた。

「一年でも十年でも、煌驥が死んでも私が死んでも、ずっと待つ」

「……随分と重いんだな、小夜は」

「最初に謝っておくわ。けれど、私はその人が一番幸せになれると思った道を選ぶべきだと思う。理想の形になれなかったとしてもね。私の場合はそれが貴方との結婚だっただけ」

「なら今よりもっと頑張らないとな」

「ええ、頑張って」

 本当に何年かかるかわからない。まだ大学は卒業していないし、したとしてもその会社で何年働けば良いかも定まっていない。

「大丈夫よ。遠い約束でも、貴方がそれを守ってくれるのなら。まあ、絶対に逃さないけれどね」

4/8/2025, 5:06:31 PM