『風景』
「まま〜! はやく〜!」
「千晴《ちはる》、走ると転んでしまいますよ」
公園で走る一人の小さな女の子。そして仕方なさそうにしながらも楽しそうな笑みを浮かべる綺麗な女性。
俺は大切なその二人のことを眺めながら先程買ったブラックコーヒーを飲む。
今から数十年前、突然日本に謎の化け物達が襲来した。
しかし一体一体はそこまで強力ではなく、銃などでも対応出来た。
問題はそこではなく、化け物達の数だった。銃や人員が間に合わず、日本全土を襲い、殺人や建物を壊したりなどの壊滅的被害を与えた。特に首都ら辺は多く、他よりも更に多くの被害を出した。数は日本国民なんて軽く超えるだろう。
そこで国の中枢は考えた。どうすればそいつらを駆逐出来るのか。考え、考え、一つの答えを出した。
眼には目を、歯には歯を、なら化け物には? ……そう、化け物をぶつければいい。
色々な研究を繰り返し、非人道的な事を幾度もこなした末に生まれたのが一人の小さな女の子だった。
見た目はただの子供。戦うところなど想像も出来ない無力そうな女の子。
だがその全貌は凄まじく、化け物数百体分を超越する身体能力、五感は突出している動物と肩を並べられるほど。反射神経や動体視力は最早研究者達の理想を超え、様々な殺しの技術をプロレベルで使用出来る。どうやってこのような人間を造ったのか理解が出来ないほどの者が生まれた。
あのクズ研究者どもは銃などの武器、そして兵器《しょうじょ》を用いて化け物達を滅殺した。
こうして日本に平和が訪れた訳だが、問題が出た。その少女をどうするか、だ。
その研究者ども、いや、父さんとその仲間達は考えた。もし国に反逆すればまた危機に陥る。なら殺す? あんな化け物をどうやって?
件の女の子は檻の中で悲しそうに座り、何もせずにただただ処遇を待っていた。
その生きる希望を無くした闇を宿す瞳を、姿を見た瞬間にまだ幼かった俺は思案し、父さん達にこう言葉を突き刺した。ある陽の光が美しい時だった。
『俺はこの子を——』
「あなた。千晴が遊ぼうと呼んでいるので来てください」
過去を振り返っていたら思いの外時間が経っていたらしく、美陽《みはる》が俺の目の前にいた。
光の混ざった吸い込まれそうな瞳。整った目鼻立ちと百八十を超える長身。女性らしさを残しながらも引き締まった鍛えられている身体。彼女の綺麗な心を表しているかのような白いワンピース。ポニーテールにしている長い黒髪は宝石のように美しい。
「……ああ、わかった」
美陽が俺に手を差し出してくる。その手を取って優しく握り、愛娘の元まで並んで歩く。
人間らしい温かい手。その心地よい感覚に意図せず口角が上がる。
「どうしたのですか、唯翔《ゆいと》さん?」
「……いや、こうして君と歩けることが嬉しくて」
素直に言葉を出すと、美陽はくすくすと可愛らしく笑う。
「唯翔さんのお陰です。まだ小さい唯翔さんがあの時の私に嫁にすると言ってくれた——」
「その話はやめてくれ。恥ずかしい」
理解している。あの時の俺の言葉は偽善であると。一目惚れした訳でも、長い時を経て愛を育んだ訳でもないから。
でもこうして隣にいてくれる。笑っていてくれる。この先の何十年もの刻を共に笑いながら歩んでくれようとしている。それだけで俺の偽善は容易く揺れ、変化した。
「でも私は嬉しかったんです。たとえ唯翔さんがどう思っていたとしても、ああ言ってくれたことが。兵器としてしか価値がなかった昔の私を必要としてくれた」
美陽が俺と顔を合わせ、幸せそうにはにかんだ。
「大好きです、唯翔さん。あの時、私を救ってくれてありがとう御座いました」
「ッ!」
泣きそうになるのをギリギリで堪える。その言葉は俺が望んだ言葉だから。
次の瞬間、娘のいる方向から悲鳴が聞こえた。
反射的にそちらを向くと、娘に向かって自動車が走っているのが見えた。もう十数メートルというところだろう。
止める? いや無理だ。千晴から近いと言っても自動車が轢く方が先だろう。
間に合わない、と直感で悟った時、俺の片手から温かさが消えた。
バゴン! と音がした数秒後、俺が目を開けると、ある長身の女性が両手で車を止めていた。
「ふう。車が凹んでしまいましたが許してもらえるでしょう。千晴、怪我はありませんか? 目を離してしまってごめんなさい」
「ままも、すなのおしろつくる?」
「魅力的な提案ですがまずは唯翔さんも一緒に運転手と話を——」
突如として呆然としていた俺の前に爆速で近づいてくる美陽。
「あ、あの……唯翔さん……」
「え? ああ……ごめん。何も行動出来なくて。本当にごめん。情けない男で」
「いえ、そうではなく……」
目の前の美しい女性《つま》は不安そうに上目遣いで俺を見てくる。
「こんな私のこと、嫌いになりましたか……? 怖かったですよね……?」
こんな、とは素手で自動車を止めた事だろう。確かに人間業ではない。……だが、余りにも見当違い過ぎる。
「なる訳ないし、怖くもないよ。ありがとう、千晴を守ってくれて」
もう二度と、檻で見たあの瞳にはさせない。必ず幸せにする。
だって——
「俺も大好きだよ、美陽」
愛しい妻の不幸を願う馬鹿野郎が、どこにいる?
「……ありがとう御座います、唯翔さん。千晴を連れてきますので、その後運転手さんと話しましょう。気絶している為逃げられないので安心してください」
いつも通りの笑みに戻った美陽は、また小夜の元へ駆けていく。その速度も人智を超えていて愛らしい。多分俺と話している時も千晴の近くに何かの気配がないかを探っていたのだろう。
妻と愛娘が手を繋ぎ、話をしつつ俺の方へ歩いてくる。その顔にはどちらにも笑みが咲いていた。
この目に映る「もの」は、輝いていた。
4/13/2025, 9:59:16 AM