あじさいが咲いていた。
通学路のすぐ傍にある公園の花壇に。
とても綺麗な色だと思った。透明なビニール傘をくるくると回しながら、学校へ向かう。
あじさいの鮮明な青色、紫色、赤色。
もうあじさいが咲く時期かあと思う。きっと、来年も同じことを思うのだ。一年が経っても大して変わらないわたしが簡単に頭に思い浮かぶ。
あじさいがいなくなったら、次は蝉が現れるだろう。そして、あっという間に紅葉の季節になって、それも知らぬ間に散っていく。
人生はとてもハイスピードで進んでいく。見落としていることがきっとたくさんある。だから、あじさいに気付けてよかったと思う。
「おーい!」
駅前で大きく手を振る友人を見つけた。周りの目など気にせずに大声で人を呼べる彼女が羨ましいけれど、今はすこし恥ずかしい。小さく手を振り返しながら、彼女にどんどん近付いていく。
駅の床は濡れていて、いつ滑って転んでもおかしくなさそうだった。
改札を二人で通り抜けて、人の波をなんとか泳いでいく。
「あじさい、咲いてたよ。」
電車の中で押し潰されそうになりながら、友人に言った。
音楽が好きな彼女はいつも耳に黒のイヤホンを差し込んでいる。けれど、彼女はいつもわたしと並ぶ時、肩が触れる方のイヤホンを外してくれている。
それに今、気が付いた。
友人が口角を上げた。
それに気付けるわたしでよかったと思う。
好き嫌いが多いわたしは、いつも料理を作ってくれる彼女の顔を歪ませる。
「ねえ。」
不機嫌そうな彼女の声が、扇風機の風音だけが響くリビングの生温い空気に伝わった。
「なに?」
なにを言われるかはわかっているけれど、気付いていないフリをする。そんなことを毎日している。
「その端っこに寄せられてるものはなに?」
「だって、グリーンピース好きじゃないもん。」
わたしの言葉に返ってきたのは、彼女の深いため息だった。
「あんたさあ、作ってる私に失礼だと思わないわけ?」
彼女もこの言葉を毎日繰り返している。お互い、よく飽きないものだと、わたしは他人事のように思う。
「嫌いなものは嫌いなんだから、仕方ないじゃない。」
嫌いなものは嫌い。そんな自分の言葉に自分で頷く。
職場の上司も嫌い。虫も嫌い。他所の家から聞こえる笑い声も嫌い。SNSで自慢を繰り返す、いつかの同級生も嫌い。グリーンピースだって嫌い。彼女の好きな人も、嫌い。
チキンライスの中には嫌いなグリーンピースや人参も入っている。人参は頑張って飲み込んでいるのだと、彼女は気付いてくれない。
「やっぱり、食生活が合わない人と同居するもんじゃないわ。」
彼女はそう言って、コップ一杯に入っていたビールを飲み干す。
彼女の口元についた泡が膨らんで、消えていく。
彼女の好きな人は、彼女と食の好みが同じなのだろうか。彼女はこんにゃくが嫌いで刺し身も嫌いで、ついでに濃口醤油も嫌いだけど、その人はそのことに気付いているのだろうか。
「わたしだって、好きなものはあるもん。」
「あっそ。」
彼女の素っ気ない言葉さえ、わたしには美しいものに聞こえる。酔っ払うと彼女の頬はかすかに赤くなって、耳は真っ赤になる。わたしが嫌いなものは料理にふんだんに入れるくせに、自分の嫌いなものは一切入れない。わたしは洗濯と掃除を毎日しているのに、彼女は一つもお礼を言わない。なのに、わたしから彼女へのお礼は強要する。そういうところも含めて大好きなのに、彼女は気付いてくれない。
この同居生活がまだ終わらないように祈りながら、スプーンでグリーンピースをすくったわたしにも、彼女はやっぱり気付いてくれなかった。
目を開けると、そこには朝日の温もりに包まれながら眠っている彼がいた。
窓の隙間から入ってくるわずかな風に揺れるカーテン。テーブルにはお酒の空き缶やスナック菓子の袋が転がっている。キッチンのシンクにはきっと洗い物が溜まっていて、お風呂だってお湯を張ったのに、結局入らなかった。月曜日から当たり前に始まる仕事とか満員電車とか、近くからする工事の大きな音とか、憂鬱になることは山ほどあるけれど、朝日の柔らかな光とともに、やすらかに眠っている彼を見ると、もうどうでもよくなった。
彼の右目の右下にあるほくろ、頬に広がる薄いそばかす、昔はピアスホールが空いていた耳、少しかさついた唇、遠慮がちに顔を出すひげも、何もかも愛おしくて、なぜか涙が溢れた。
今は起きないでほしい、と祈りながら、さらさらの黒髪をわたしの指に絡める。
寝起きの顔でボサボサの髪で泣いている恋人なんて、誰も見たくないし見てほしくないだろう。
起きないで、と願いながらも、彼のほくろや唇をなぞる。彼がくすぐったそうに動く。わたしの涙は止まらなかった。
しばらくして、彼が目を開いた。真っ黒だけど、いつまでも煌めきを失わない瞳。それにわたしは一瞬吸い込まれてしまったかのように、息を呑んだ。
「なんで泣いてるの。」
限りなく優しい声で、けれど寝起きだから少しかすれた声で彼が言う。左手でわたしの手を包んで、右手でわたしの身体を抱き寄せる。乱暴じゃなくて、むしろ優しくて丁寧すぎるその仕草が、そして彼が愛おしくてわたしは彼の胸の中で泣いた。
「もし、世界の終わりがすぐそこまで来てたらさ、最後ぐらい君とキスをしたいよね。」
コンビニのカフェオレは最近進化しているらしい。愛飲している彼はわたしにそう教えてくれた。
ストローを噛む癖はいつになっても治らない。彼は歯形がついたストローを見て「またやっちゃった。」と言う。それを聞くのはもう何回目なのか分からない。
「きも。」
「知ってる。」
彼が吐く言葉はいつもわたしの鳥肌を立たせる。
気持ち悪い、と素直に言えるのは、付き合いが長いからではなくて、彼がわたしに好意を持っていないくせにそういうことを言うからだ。
わたしは、お試しでしかない。彼は本命にどんな言葉を伝えるかいつも一生懸命考えて、毎回気味の悪い言葉を編み出す。そして、わたしに言って反応を見るのだ。わたしの反応はどんな時も変わらない。だから、彼が本命にその言葉をかけることはない。本当は彼も分かっている。そんなことを考えるのは無駄で、わたしで試してみるのも無駄で、結局はなにも意味のないことなのだと。それでも彼は必ず新しい言葉を作り出す。そのたびにわたしは馬鹿だなあと思う。
「ヘタレ。」
「知ってる。」
「さっさと告白してフラれてきたら?」
「うるさいなあ。」
「ばーか。」
「それはただの悪口だよね!?」
思わず唇の隙間から笑い声が漏れた。そして、彼も呆れたように笑う。
「彼女、今頃男とデート行ってるんだろうね。いいなあ、わたしも人生で一回ぐらいは高級レストランに行ってみたいよ。」
「ぼくの傷口に塩を塗る必要ある?」
彼が一生懸命言葉を考えている間、彼の本命は男をとっかえひっかえして、ブランド物のバッグやアクセサリーを買ってもらっている。
本当、こいつは馬鹿だと思う。真の馬鹿野郎だ。
そして彼女はあと数時間もしないうちに、金を広げて笑うような男と一緒にホテルに行くのだろう。
さすがにそれは言わないであげようと思った。わたしだって必要以上の塩を持ちたくない。
「世界の終わりがもうすぐ来るならさ、キスする時間もったいなくない?」
「へ?」
「わたしなら、手繋いでお互いに寄りかかって眠って、気付かない間に死にたい。」
彼の部屋はとても狭い。ベッドとテーブルしかないこの部屋で、わたし達は今二人きりだ。
彼の手はカフェオレのカップを持っていたせいで少し濡れたまま、テーブルに放り出されている。
あれを掴んで、二人眠って、世界が終わるのなら本望だ。
「最悪、リップ折れたんだけど!」
洗面所からそんな声が聞こえてきた。
すでにコーヒーを入れたコップに牛乳を注ごうとしながら、わたしは次に飛んでくる言葉を予想する。
「お姉ちゃん、リップ貸して!」
当たり、と呟いた。
コップの中に少しずつ白が広がって、けれどその白も茶色に変わった。
「いいよ。」
出来るかぎり声を張り上げたけれど、きっとあの子には届いていない。あの子は、妹は今、わたしが許可を出す前に蓋を開けて、唇に色を乗せている。たぶん、ピンク色。わたしがあまりにも使わないから、メイクポーチから追い出され、部屋から追い出され、洗面所に辿り着いたピンクのリップ。
チンと小気味よい音が鳴って、トースターからお皿の上に、焼き目が程よくついた食パンを移動させる。焼き立てで熱いから、早業で。いつ身についたのかも忘れてしまったほどの当たり前。
コップとお皿を持って、テーブルへ移動する。そして、座って手を合わせたところで、大きな足音が響いた。
「行ってくる!」
真っ白な肌、茶色に染めた長い髪、薄いメイク。唇はやっぱりピンク。服は、妹の趣味のものじゃなくて、大多数がいいと言うであろうもの。
ああ、やっぱりこの子は変わらない。そう思った。
「行ってらっしゃい。」
扉が閉まる音がしてから、ひとりごちた。
シャンプーかボディソープか日焼け止めか香水か、何なのか分からない甘い匂いが部屋の中に満ちているような気がした。
洗剤ではないはず、だってわたしの服からこんな匂いはしないから。香水もあの子はするタイプじゃない、でも。
トーストをかじった。何もつけなくても充分美味しい。
あの子は人がいいと言えば、嫌いな香水だってつけてしまえる子だ。
人に好かれることを第一に考える妹は嫌いじゃない。時折、どうしようもなく他人に思えてしまうだけ。
真っ暗なテレビに反射するわたしは、黒髪を肩の上で切り揃えている。赤のリップも濃いアイラインも引ける。ピアスホールはたくさん空いているし、服だって着たいものを着る。
けれど、たまに思う。
『人から好かれる女の子』を全身で表している子が妹だなんて、最悪だと。