すべて物語のつもりです

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 目を開けると、そこには朝日の温もりに包まれながら眠っている彼がいた。
 窓の隙間から入ってくるわずかな風に揺れるカーテン。テーブルにはお酒の空き缶やスナック菓子の袋が転がっている。キッチンのシンクにはきっと洗い物が溜まっていて、お風呂だってお湯を張ったのに、結局入らなかった。月曜日から当たり前に始まる仕事とか満員電車とか、近くからする工事の大きな音とか、憂鬱になることは山ほどあるけれど、朝日の柔らかな光とともに、やすらかに眠っている彼を見ると、もうどうでもよくなった。
 彼の右目の右下にあるほくろ、頬に広がる薄いそばかす、昔はピアスホールが空いていた耳、少しかさついた唇、遠慮がちに顔を出すひげも、何もかも愛おしくて、なぜか涙が溢れた。
 今は起きないでほしい、と祈りながら、さらさらの黒髪をわたしの指に絡める。
 寝起きの顔でボサボサの髪で泣いている恋人なんて、誰も見たくないし見てほしくないだろう。
 起きないで、と願いながらも、彼のほくろや唇をなぞる。彼がくすぐったそうに動く。わたしの涙は止まらなかった。
 しばらくして、彼が目を開いた。真っ黒だけど、いつまでも煌めきを失わない瞳。それにわたしは一瞬吸い込まれてしまったかのように、息を呑んだ。
「なんで泣いてるの。」
 限りなく優しい声で、けれど寝起きだから少しかすれた声で彼が言う。左手でわたしの手を包んで、右手でわたしの身体を抱き寄せる。乱暴じゃなくて、むしろ優しくて丁寧すぎるその仕草が、そして彼が愛おしくてわたしは彼の胸の中で泣いた。

6/10/2023, 2:29:22 AM