すべて物語のつもりです

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1/13/2025, 7:56:48 AM

 あの夢のつづきを、とか細い声だった。彼女がどんな夢を見たのかわたしには分からなかった。彼女はいつも夢見がよくないから、今日も例外ではなくそうなのだと思ったけれど。あの夢、に彼女が縋っているように見えて、きっとさぞかし素敵な夢だったのだろうと思った。
 それでも彼女は泣いていた。はらはらと涙を流して、頬を伝ったそれらは、二人で一つを共有する枕を濡らした。
 大丈夫だよ、と抱きしめてみる。彼女の白い肌は血管までもが透けて見えそうで、わたしが抱きしめた跡すらも鮮明に残してしまいそうで、触れるのが怖い。けれど、その恐怖よりも、彼女がそのままどこか行ってしまいそうなことの方が怖かった。ベッドから起き上がった彼女を引き留めるようにして抱きしめる。
 大丈夫だよ、なんて確証はない。それでも、わたしはそれしか言えない。
 彼女はなにも言わず、無理にわたしの腕を逃れようとせず、ただベッドの縁に人形のように座っていた。
 しばらくして、手の甲が濡れた。

12/17/2024, 11:00:50 AM

「とりとめもない話、してもいい?」
 とりとめもない話ならば、そんな前提はいらないんじゃないかと思った。無言を肯定と受け取ったらしい彼女は、言葉を続けた。
「私達が生きられているのは奇跡が連続してるからなんだなって最近気づいたの」
 つまらない動画をスクロールしていくだけの指が止まった。
「私達の傍にはいつだって死があるの。それなのに私達が生きていられるのは、奇跡がたまたま、当たり前のように続いてくれているからなの。そのことに気付いて、私、もっと生きたくなっちゃった。いつかは死んでしまうのなら、今死ぬのは勿体ないなって思えるようになったの」
 何も言わないことが正解だった。本音を言えば、彼女の声のトーンは明らかに下がるだろうし、彼女の言葉に驚くあまり、作り笑顔に思ってもいない言葉を重ねる余裕はなかった。
「ねえ、一緒に生きたいな、この先も」
 何に毒されてしまったのだろう、いつものように考えすぎておかしくなってしまったのか。わからないけれど。
 彼女のその傷でさえも、彼女が与えられた奇跡の証明になるのだろうか。

11/23/2024, 5:42:12 AM

 夫婦になったからと言って、なにかが大きく変わるわけではなかった。わたしの隣にはいつも彼がいて、彼の隣にはわたしがいた。それは今までの当たり前で、これからも当たり前であるはずだった。
「ごめんな」
 わたしの頬を撫でる手がかすかに震えている。
 なにか言いたかったはずなのに、ただ心臓がわたしの中で暴れるだけで、口を動かすことができなかった。
「本当にごめん」
 そんなに謝られても、と言いたかった。
 もうどうにもならないのよ。
「俺は君が好きだよ」
 彼の目が、わたしに縋って突き放そうとする。
 そんな言葉に胸を高鳴らせるべきではないのに。
「わたしは」
 その次になにを紡げばいいのか分からなかった。
 わたしはどんな顔をしているのだろう。彼の目を覗き込むことはできなかった。
「わたしは、約束を守ってほしかった」
 病めるときも健やかなるときもわたし達は愛し合うと誓ったはずなのに。
 彼はそれを破ろうとしている。けれど、わたしも破ろうとしている。それでも、すべての責は彼にあると言いたげなことしか言えない。
「ごめん」
 彼の手がわたしの頬から離れていった。すぐにわずかな温もりが恋しくなる。
「いなくならないで」
 わたしの言葉に彼は目を逸らした。もう、ごめんとすら言ってくれなかった。

4/5/2024, 5:48:35 AM

 それでいい、それでよかったんだと、自分に言い聞かせる目の前の男はとても痛々しかった。
 助けてくれ、と言っている。歪んだ表情や裂けた肌、変な方向に曲がった指が、言っている。
「ねえ」
 わたしの声にぴくりと身体を揺らし、視線をこちらに向ける。笑おうとしているけれど、その表情は笑顔とは程遠く、引きつったような唇がまた痛々しい。
「帰ろうよ」
 カワイソウ、と男に対して思うくせに、わたしの声はあまりに淡々としていた。
「帰る?」
 どこに、と口の形だけが変わる。前歯が欠けていた。わからない、と声には出さなかった。
 見事な脱出劇だった。わたしは当事者なのに、その状況を俯瞰しているような気分だ。
 地獄からの、脱出。それを目的としてから、わたし達の距離は縮まったはずなのに、彼の熱が上がるほど、わたしは冷めていった。
 非現実的だと、決行の前夜にひとり笑ってしまった。けれど、脱出は現実となった。成功、といっていいのかはまだ分からないけれど。
「ねえ」
 なに、と動く。もう声を出す気力も残っていないようだった。
「こわいよ、あんた」
 そう言ってから、わたしは自分がとてつもなく酷い人間であることを自覚する。地獄で笑うあいつらよりも、遥かに。
 男の唇が、一の字に結ばれる。わたしをなにも言わずに見ている。片目が潰れているのに、息を呑んでしまうような鋭い視線。
「ねえ」
 唇は動かない。
「これからは、それぞれ自由に生きるって話だったけど」
 地獄からずっと逃げ出したいと願っていた。
 長年の望みにようやく手が届いたのに、まったく嬉しくない。むしろ、真っ黒な感情がわたしの心を蝕んでいく。
「一緒に死んでくれない?」
 地獄が爆発した。だれかの泣き声が頭の中でずっと反響している。
 自分が救われるために、知らない人の命を奪った。その事実を抱えながら、これから救われることができる気がしなかった。
「一緒にさ、別の地獄にいようよ」
 きっと、前のところよりは居心地いいはずだよ。
 そうは言えなかった。

4/1/2024, 1:43:46 PM

 エイプリルフールに吐いた嘘は、その一年間決して現実のものとならないらしい。
 そのことを知ったのは、去年の4月2日。SNSで「親が土下座して謝ってきた笑 もう乱暴しないって」と投稿した次の日のことだった。
 そういうのは単なる迷信で、おふざけの延長線上にあるものだと、自分に言い聞かせた。つまり、わたしは親の虐待が今年こそ無くなるとどうしても信じたかったのだ。物心つく前からずっと願っていた。死にきれない夜も、眩しさに吐き気がする朝も、ずっと望んでいたのだ。
 けれど、迷信は迷信でも、信じられているということは、多少の真実味を含んでいるからなのだ。
 お腹や二の腕、その他諸々のところについた傷。なぞる。ぞわりとする。名前も知らない男のがさついた手を思い出して、なにかが喉元までせり上がってくる。
 縋るような顔して「笑」と打ったあの日から、状況は悪化しているようにしか思えなかった。
 もう新しい年度に入ってしまった。ずっと、ずっと変わらない日々がまだ続いていくようにしか考えられなかった。
 「親の乱暴が止まらない」とでも言えば、明日あいつらの態度はコロリと変わるのだろうか。けれど、それは嘘ではない。ただの現実でしかないことを呟いて、なにか変わってくれるのではないかと今更望む気力もない。
 ああ、死にたい。
 乱暴に扉が開けられる音がする。
 ああ、死にたい。
 鼻息を荒くした男が、わたしの前に立ちはだかる。
 ああ、死にたい。
 男が拳を作って、それを振りかざす。
 ああ。
「生きたい。」

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