すべて物語のつもりです

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 それでいい、それでよかったんだと、自分に言い聞かせる目の前の男はとても痛々しかった。
 助けてくれ、と言っている。歪んだ表情や裂けた肌、変な方向に曲がった指が、言っている。
「ねえ」
 わたしの声にぴくりと身体を揺らし、視線をこちらに向ける。笑おうとしているけれど、その表情は笑顔とは程遠く、引きつったような唇がまた痛々しい。
「帰ろうよ」
 カワイソウ、と男に対して思うくせに、わたしの声はあまりに淡々としていた。
「帰る?」
 どこに、と口の形だけが変わる。前歯が欠けていた。わからない、と声には出さなかった。
 見事な脱出劇だった。わたしは当事者なのに、その状況を俯瞰しているような気分だ。
 地獄からの、脱出。それを目的としてから、わたし達の距離は縮まったはずなのに、彼の熱が上がるほど、わたしは冷めていった。
 非現実的だと、決行の前夜にひとり笑ってしまった。けれど、脱出は現実となった。成功、といっていいのかはまだ分からないけれど。
「ねえ」
 なに、と動く。もう声を出す気力も残っていないようだった。
「こわいよ、あんた」
 そう言ってから、わたしは自分がとてつもなく酷い人間であることを自覚する。地獄で笑うあいつらよりも、遥かに。
 男の唇が、一の字に結ばれる。わたしをなにも言わずに見ている。片目が潰れているのに、息を呑んでしまうような鋭い視線。
「ねえ」
 唇は動かない。
「これからは、それぞれ自由に生きるって話だったけど」
 地獄からずっと逃げ出したいと願っていた。
 長年の望みにようやく手が届いたのに、まったく嬉しくない。むしろ、真っ黒な感情がわたしの心を蝕んでいく。
「一緒に死んでくれない?」
 地獄が爆発した。だれかの泣き声が頭の中でずっと反響している。
 自分が救われるために、知らない人の命を奪った。その事実を抱えながら、これから救われることができる気がしなかった。
「一緒にさ、別の地獄にいようよ」
 きっと、前のところよりは居心地いいはずだよ。
 そうは言えなかった。

4/5/2024, 5:48:35 AM