「最悪、リップ折れたんだけど!」
洗面所からそんな声が聞こえてきた。
すでにコーヒーを入れたコップに牛乳を注ごうとしながら、わたしは次に飛んでくる言葉を予想する。
「お姉ちゃん、リップ貸して!」
当たり、と呟いた。
コップの中に少しずつ白が広がって、けれどその白も茶色に変わった。
「いいよ。」
出来るかぎり声を張り上げたけれど、きっとあの子には届いていない。あの子は、妹は今、わたしが許可を出す前に蓋を開けて、唇に色を乗せている。たぶん、ピンク色。わたしがあまりにも使わないから、メイクポーチから追い出され、部屋から追い出され、洗面所に辿り着いたピンクのリップ。
チンと小気味よい音が鳴って、トースターからお皿の上に、焼き目が程よくついた食パンを移動させる。焼き立てで熱いから、早業で。いつ身についたのかも忘れてしまったほどの当たり前。
コップとお皿を持って、テーブルへ移動する。そして、座って手を合わせたところで、大きな足音が響いた。
「行ってくる!」
真っ白な肌、茶色に染めた長い髪、薄いメイク。唇はやっぱりピンク。服は、妹の趣味のものじゃなくて、大多数がいいと言うであろうもの。
ああ、やっぱりこの子は変わらない。そう思った。
「行ってらっしゃい。」
扉が閉まる音がしてから、ひとりごちた。
シャンプーかボディソープか日焼け止めか香水か、何なのか分からない甘い匂いが部屋の中に満ちているような気がした。
洗剤ではないはず、だってわたしの服からこんな匂いはしないから。香水もあの子はするタイプじゃない、でも。
トーストをかじった。何もつけなくても充分美味しい。
あの子は人がいいと言えば、嫌いな香水だってつけてしまえる子だ。
人に好かれることを第一に考える妹は嫌いじゃない。時折、どうしようもなく他人に思えてしまうだけ。
真っ暗なテレビに反射するわたしは、黒髪を肩の上で切り揃えている。赤のリップも濃いアイラインも引ける。ピアスホールはたくさん空いているし、服だって着たいものを着る。
けれど、たまに思う。
『人から好かれる女の子』を全身で表している子が妹だなんて、最悪だと。
6/6/2023, 1:25:30 PM