放課後の校庭に、オレンジ色の夕焼けが広がっていた。ひとり、バスケットボールをつく音が静かな空気の中に響く。
「……もうちょっとだ」
蒼(あおい)は額の汗をぬぐいながら、ゴールを見上げた。部活を引退しても、ここに残っているのは、自分だけまだ夢の途中だからだ。
「今日こそ決めるぞ」
彼は深呼吸し、ボールを持ち直した。そして大きく踏み込み、空へと跳ぶ。手の中のボールをゴールへ向かって放つ。しかし、ボールはリングをかすめて弾かれた。
「……くそっ」
何度も挑戦してきたのに、まだダンクを決められない。身長もジャンプ力も、才能のある奴には敵わないとわかっている。それでも──
「蒼!」
声のする方を見ると、クラスメイトの美咲(みさき)が駆け寄ってきた。
「まだやってるの? もう帰ろうよ」
「もうちょっとだけ」
彼は苦笑して、またボールを拾った。美咲は腕を組んで、ため息をつく。
「引退したのに、まだそんなに頑張るの?」 「……最後に一回、ダンクを決めたいんだ」
蒼の言葉に、美咲はしばらく黙っていた。しかし、やがてふっと笑う。
「じゃあ、応援してあげる。決めたら、ご褒美あげるね」
「ご褒美?」
「ナイショ。でも、頑張った人にはちゃんといいことあるよ」
蒼はその言葉に苦笑しながらも、ボールを強く握った。
もう一度、空を見上げる。
高く、遠い、届かないはずの場所。
でも、きっと──
「いくぞっ!」
全身の力を込めて跳ぶ。オレンジの空に向かって、手を伸ばす。そして──
ボールは、音もなくリングをくぐった。
「やった……!!」
蒼が歓声を上げると、美咲が満面の笑みで駆け寄ってきた。
「すごい! 本当に決めた!」
その瞬間、ふいに彼女が近づいて、蒼の頬に軽くキスをした。
「……え?」
「ご褒美。頑張ったもんね」
夕焼けの中で、美咲はいたずらっぽく笑う。蒼の顔が、夕陽よりも赤く染まった。
空に向かって伸ばした手は、確かに夢を掴んだ。そして、それ以上に大切なものも。
完
お題:空に向かって
雨が降っていた。冷たい雨粒が窓を叩く音が、彼女の心の中に広がる寂しさをさらに際立たせる。
由梨はベッドに座り、震える指でスマートフォンの画面を見つめていた。そこにはたった一言、「ごめん」というメッセージが浮かんでいる。
たったそれだけで、すべてが終わったのだと悟った。彼の顔が思い浮かぶ。優しくて、時に不器用で、それでも彼女を大切にしてくれた。その笑顔がもう自分に向けられることはないのだと気づいた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「……嘘でしょ?」
呟いた声はかすれていて、自分のものではないようだった。涙は出なかった。ただ、頭の中が真っ白になっていた。
外では雷が鳴った。ふと、彼と最後に会った日のことを思い出す。
「由梨、ごめん。もう、無理かもしれない」
その言葉を聞いたとき、彼の表情は曇っていた。けれど、彼女は笑って「そんなこと言わないでよ」と強がってしまった。本当は気づいていたのに。彼の心が、自分の元から離れつつあることを。
どこで間違えたのだろう? 何がいけなかったのだろう?
机の上には、彼からもらった小さなアクセサリーが置かれていた。誕生日にくれたものだ。指でそっと触れると、冷たく硬い感触が指先に伝わる。彼の手の温もりを思い出し、やっと、涙がこぼれた。
音もなく、ただ静かに流れる涙。
スマートフォンの画面は暗くなり、そこに映るのは自分の顔だけだった。涙に濡れた瞳は赤く腫れ、唇は震えている。それでも、涙は止まらない。
――こんなにも好きだったのに。
何度もそう思った。
雨はまだ降り続けていた。夜が明けるころには、きっと止むのだろう。彼女の涙も、いつかは止まるのだろうか。
それは、今はまだわからなかった。
完
お題:涙
春の訪れを告げるように、街路樹の桜が静かに蕾を膨らませていた。風はまだ冷たかったが、陽射しにはほんのりとした温もりがあった。
駅前の小さなカフェのテラス席に座る彼女は、静かにカップを傾けた。ミルクティーの香りが立ち上り、ほっと息をつく。彼女の前には、一冊のノートと万年筆。そこには、几帳面な文字で小さなメモが書かれていた。
『今日の小さな幸せ』
この習慣を始めたのは、ほんの半年前だった。日々の忙しさの中で、些細な幸せを見逃さないようにと、小さな出来事をノートに記していたのだ。
今日の小さな幸せは――。
考えながら、ふと顔を上げると、目の前に見覚えのある姿があった。
「お待たせ」
穏やかな声とともに、彼が微笑んでいた。春の日差しを受けた彼の表情は、どこか柔らかく見える。彼女は思わず笑みを返した。
「そんなに待ってないよ」
「でも、もう紅茶が半分くらい減ってる」
「……まあね」
彼は苦笑しながら、向かいの席に座ると、コーヒーをひと口飲んだ。
「今日の小さな幸せは、もう書いた?」
彼は彼女のノートを指さした。彼女は少し考え、首を横に振る。
「まだ。でも、今書くよ」
そう言って、彼女は万年筆をとり、ノートにさらりと書き記した。
『好きな人と、春の日差しの中で過ごすひととき』
彼がそれを覗き込んで、ふっと優しく微笑む。
「それ、僕も同じかも」
「本当に?」
「うん。こうして君と会える時間が、僕の小さな幸せ」
彼女は一瞬驚き、それからくすっと笑った。
「じゃあ、今日の小さな幸せ、共有しちゃったね」
「うん、そうだね」
二人は微笑み合いながら、春の風を感じた。小さな幸せは、こうして積み重なっていくのだろう。
完
お題:小さな幸せ
桜が咲き誇るこの季節、私は毎年、あの丘に足を運ぶ。
丘の上には一本の大きな桜の木がある。その下には古びた木のベンチ。私はそこに腰掛け、柔らかな春風に吹かれながら、満開の桜を仰ぎ見た。
「今年も、綺麗に咲いたね」
隣には誰もいない。それでも、私はそう呟かずにはいられなかった。
十年前の春、私はここで彼と出会った。
彼は旅の途中でこの町に立ち寄った青年だった。桜の下で本を読んでいた私に話しかけてきたのが最初だった。話してみると、彼は絵描きで、世界中を旅しながら美しい風景を絵に収めているのだと言った。
「この桜も、いつか絵にしてみたいな」
彼はそう言って、スケッチブックに桜の木を描き始めた。その真剣な横顔を、私は今でも忘れられない。
彼はこの町に数日滞在し、毎日この丘で絵を描いた。そして、旅立つ前の日にこう言ったのだ。
「十年後、またこの桜の下で会おう。きっと、もっと素敵な絵を描けるようになってるから」
私は笑って頷いた。そして、彼は旅立った。
それから十年、私は毎年春になるとここに来た。だが、彼が戻ってくることはなかった。最初の数年は期待して待っていたが、次第にそれも薄れ、今ではただ静かに桜を眺めるだけになっていた。
今年もまた、そうして桜を見上げていたその時——。
「……久しぶり」
懐かしい声がした。
振り向くと、そこに彼がいた。少しだけ年を重ねた顔、でも変わらない優しい笑顔。
「約束、守れなくてごめん。でも、今度こそ……君を描かせてくれる?」
春風がそっと桜の花びらを運ぶ。
十年前と同じように、彼はスケッチブックを開き、筆を走らせ始めた。
私はただ、微笑んで彼を見つめていた。
完
お題:春爛漫
雨上がりの午後、公園の池にかかる小さな橋の上で、少女・彩葉(いろは)は足を止めた。空にはくっきりとした虹が架かり、その七色が水面に映っていた。
「きれい……」
彩葉がつぶやくと、隣にいた祖母が優しく微笑んだ。
「虹はね、不思議なものなのよ。昔、おばあちゃんはこの橋で“七色の奇跡”を見たことがあるの」
彩葉は目を輝かせた。
「どんな奇跡?」
祖母は少し昔を思い出すように目を細めた。
「あれは、私がまだ若い頃。ひどく落ち込んで、この橋でぼんやりしていたの。でもね、ふと見上げたら、大きな虹がかかっていてね。その時、不思議と心が軽くなったの。まるで、虹が私の悲しみを連れて行ってくれたみたいだった」
「……じゃあ、虹を見ると幸せになれるの?」
「ええ。七色の光には、人の心を癒す力があるのかもしれないわね」
彩葉はそっと目を閉じた。やがて目を開けると、空の虹が、まるで優しく微笑んでいるように見えた。
完
お題:七色