SIRO

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4/3/2025, 12:46:18 AM

 放課後の校庭に、オレンジ色の夕焼けが広がっていた。ひとり、バスケットボールをつく音が静かな空気の中に響く。

「……もうちょっとだ」

 蒼(あおい)は額の汗をぬぐいながら、ゴールを見上げた。部活を引退しても、ここに残っているのは、自分だけまだ夢の途中だからだ。

「今日こそ決めるぞ」

 彼は深呼吸し、ボールを持ち直した。そして大きく踏み込み、空へと跳ぶ。手の中のボールをゴールへ向かって放つ。しかし、ボールはリングをかすめて弾かれた。

「……くそっ」

 何度も挑戦してきたのに、まだダンクを決められない。身長もジャンプ力も、才能のある奴には敵わないとわかっている。それでも──

「蒼!」

 声のする方を見ると、クラスメイトの美咲(みさき)が駆け寄ってきた。

「まだやってるの? もう帰ろうよ」
「もうちょっとだけ」

 彼は苦笑して、またボールを拾った。美咲は腕を組んで、ため息をつく。

「引退したのに、まだそんなに頑張るの?」 「……最後に一回、ダンクを決めたいんだ」

 蒼の言葉に、美咲はしばらく黙っていた。しかし、やがてふっと笑う。

「じゃあ、応援してあげる。決めたら、ご褒美あげるね」
「ご褒美?」
「ナイショ。でも、頑張った人にはちゃんといいことあるよ」

 蒼はその言葉に苦笑しながらも、ボールを強く握った。

 もう一度、空を見上げる。

 高く、遠い、届かないはずの場所。

 でも、きっと──

「いくぞっ!」

 全身の力を込めて跳ぶ。オレンジの空に向かって、手を伸ばす。そして──

 ボールは、音もなくリングをくぐった。

「やった……!!」

 蒼が歓声を上げると、美咲が満面の笑みで駆け寄ってきた。

「すごい! 本当に決めた!」

 その瞬間、ふいに彼女が近づいて、蒼の頬に軽くキスをした。

「……え?」
「ご褒美。頑張ったもんね」

 夕焼けの中で、美咲はいたずらっぽく笑う。蒼の顔が、夕陽よりも赤く染まった。

 空に向かって伸ばした手は、確かに夢を掴んだ。そして、それ以上に大切なものも。


お題:空に向かって

3/29/2025, 10:22:09 AM

 雨が降っていた。冷たい雨粒が窓を叩く音が、彼女の心の中に広がる寂しさをさらに際立たせる。

 由梨はベッドに座り、震える指でスマートフォンの画面を見つめていた。そこにはたった一言、「ごめん」というメッセージが浮かんでいる。

 たったそれだけで、すべてが終わったのだと悟った。彼の顔が思い浮かぶ。優しくて、時に不器用で、それでも彼女を大切にしてくれた。その笑顔がもう自分に向けられることはないのだと気づいた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 「……嘘でしょ?」

 呟いた声はかすれていて、自分のものではないようだった。涙は出なかった。ただ、頭の中が真っ白になっていた。

 外では雷が鳴った。ふと、彼と最後に会った日のことを思い出す。

 「由梨、ごめん。もう、無理かもしれない」

 その言葉を聞いたとき、彼の表情は曇っていた。けれど、彼女は笑って「そんなこと言わないでよ」と強がってしまった。本当は気づいていたのに。彼の心が、自分の元から離れつつあることを。

 どこで間違えたのだろう? 何がいけなかったのだろう?

 机の上には、彼からもらった小さなアクセサリーが置かれていた。誕生日にくれたものだ。指でそっと触れると、冷たく硬い感触が指先に伝わる。彼の手の温もりを思い出し、やっと、涙がこぼれた。

 音もなく、ただ静かに流れる涙。

 スマートフォンの画面は暗くなり、そこに映るのは自分の顔だけだった。涙に濡れた瞳は赤く腫れ、唇は震えている。それでも、涙は止まらない。

 ――こんなにも好きだったのに。

 何度もそう思った。

 雨はまだ降り続けていた。夜が明けるころには、きっと止むのだろう。彼女の涙も、いつかは止まるのだろうか。

 それは、今はまだわからなかった。


お題:涙

3/29/2025, 1:35:31 AM

 春の訪れを告げるように、街路樹の桜が静かに蕾を膨らませていた。風はまだ冷たかったが、陽射しにはほんのりとした温もりがあった。

 駅前の小さなカフェのテラス席に座る彼女は、静かにカップを傾けた。ミルクティーの香りが立ち上り、ほっと息をつく。彼女の前には、一冊のノートと万年筆。そこには、几帳面な文字で小さなメモが書かれていた。

『今日の小さな幸せ』

 この習慣を始めたのは、ほんの半年前だった。日々の忙しさの中で、些細な幸せを見逃さないようにと、小さな出来事をノートに記していたのだ。

 今日の小さな幸せは――。

 考えながら、ふと顔を上げると、目の前に見覚えのある姿があった。

「お待たせ」

 穏やかな声とともに、彼が微笑んでいた。春の日差しを受けた彼の表情は、どこか柔らかく見える。彼女は思わず笑みを返した。

「そんなに待ってないよ」

「でも、もう紅茶が半分くらい減ってる」

「……まあね」

 彼は苦笑しながら、向かいの席に座ると、コーヒーをひと口飲んだ。

「今日の小さな幸せは、もう書いた?」

 彼は彼女のノートを指さした。彼女は少し考え、首を横に振る。

「まだ。でも、今書くよ」

 そう言って、彼女は万年筆をとり、ノートにさらりと書き記した。

『好きな人と、春の日差しの中で過ごすひととき』

 彼がそれを覗き込んで、ふっと優しく微笑む。

「それ、僕も同じかも」

「本当に?」

「うん。こうして君と会える時間が、僕の小さな幸せ」

 彼女は一瞬驚き、それからくすっと笑った。

「じゃあ、今日の小さな幸せ、共有しちゃったね」

「うん、そうだね」

 二人は微笑み合いながら、春の風を感じた。小さな幸せは、こうして積み重なっていくのだろう。


お題:小さな幸せ

3/28/2025, 9:41:55 AM

 桜が咲き誇るこの季節、私は毎年、あの丘に足を運ぶ。

 丘の上には一本の大きな桜の木がある。その下には古びた木のベンチ。私はそこに腰掛け、柔らかな春風に吹かれながら、満開の桜を仰ぎ見た。

「今年も、綺麗に咲いたね」

 隣には誰もいない。それでも、私はそう呟かずにはいられなかった。

 十年前の春、私はここで彼と出会った。

 彼は旅の途中でこの町に立ち寄った青年だった。桜の下で本を読んでいた私に話しかけてきたのが最初だった。話してみると、彼は絵描きで、世界中を旅しながら美しい風景を絵に収めているのだと言った。

「この桜も、いつか絵にしてみたいな」

 彼はそう言って、スケッチブックに桜の木を描き始めた。その真剣な横顔を、私は今でも忘れられない。

 彼はこの町に数日滞在し、毎日この丘で絵を描いた。そして、旅立つ前の日にこう言ったのだ。

「十年後、またこの桜の下で会おう。きっと、もっと素敵な絵を描けるようになってるから」

 私は笑って頷いた。そして、彼は旅立った。

 それから十年、私は毎年春になるとここに来た。だが、彼が戻ってくることはなかった。最初の数年は期待して待っていたが、次第にそれも薄れ、今ではただ静かに桜を眺めるだけになっていた。

 今年もまた、そうして桜を見上げていたその時——。

「……久しぶり」

 懐かしい声がした。

 振り向くと、そこに彼がいた。少しだけ年を重ねた顔、でも変わらない優しい笑顔。

「約束、守れなくてごめん。でも、今度こそ……君を描かせてくれる?」

 春風がそっと桜の花びらを運ぶ。

 十年前と同じように、彼はスケッチブックを開き、筆を走らせ始めた。

 私はただ、微笑んで彼を見つめていた。



お題:春爛漫

3/27/2025, 7:41:53 AM

 雨上がりの午後、公園の池にかかる小さな橋の上で、少女・彩葉(いろは)は足を止めた。空にはくっきりとした虹が架かり、その七色が水面に映っていた。

「きれい……」

 彩葉がつぶやくと、隣にいた祖母が優しく微笑んだ。

「虹はね、不思議なものなのよ。昔、おばあちゃんはこの橋で“七色の奇跡”を見たことがあるの」

 彩葉は目を輝かせた。

「どんな奇跡?」

 祖母は少し昔を思い出すように目を細めた。

「あれは、私がまだ若い頃。ひどく落ち込んで、この橋でぼんやりしていたの。でもね、ふと見上げたら、大きな虹がかかっていてね。その時、不思議と心が軽くなったの。まるで、虹が私の悲しみを連れて行ってくれたみたいだった」

「……じゃあ、虹を見ると幸せになれるの?」
「ええ。七色の光には、人の心を癒す力があるのかもしれないわね」

 彩葉はそっと目を閉じた。やがて目を開けると、空の虹が、まるで優しく微笑んでいるように見えた。


お題:七色

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