桜が咲き誇るこの季節、私は毎年、あの丘に足を運ぶ。
丘の上には一本の大きな桜の木がある。その下には古びた木のベンチ。私はそこに腰掛け、柔らかな春風に吹かれながら、満開の桜を仰ぎ見た。
「今年も、綺麗に咲いたね」
隣には誰もいない。それでも、私はそう呟かずにはいられなかった。
十年前の春、私はここで彼と出会った。
彼は旅の途中でこの町に立ち寄った青年だった。桜の下で本を読んでいた私に話しかけてきたのが最初だった。話してみると、彼は絵描きで、世界中を旅しながら美しい風景を絵に収めているのだと言った。
「この桜も、いつか絵にしてみたいな」
彼はそう言って、スケッチブックに桜の木を描き始めた。その真剣な横顔を、私は今でも忘れられない。
彼はこの町に数日滞在し、毎日この丘で絵を描いた。そして、旅立つ前の日にこう言ったのだ。
「十年後、またこの桜の下で会おう。きっと、もっと素敵な絵を描けるようになってるから」
私は笑って頷いた。そして、彼は旅立った。
それから十年、私は毎年春になるとここに来た。だが、彼が戻ってくることはなかった。最初の数年は期待して待っていたが、次第にそれも薄れ、今ではただ静かに桜を眺めるだけになっていた。
今年もまた、そうして桜を見上げていたその時——。
「……久しぶり」
懐かしい声がした。
振り向くと、そこに彼がいた。少しだけ年を重ねた顔、でも変わらない優しい笑顔。
「約束、守れなくてごめん。でも、今度こそ……君を描かせてくれる?」
春風がそっと桜の花びらを運ぶ。
十年前と同じように、彼はスケッチブックを開き、筆を走らせ始めた。
私はただ、微笑んで彼を見つめていた。
完
お題:春爛漫
3/28/2025, 9:41:55 AM