「君といる時間は替えのきかない宝物だった!」
フェンスの向こう、彼は清々しそうな顔でそう声を上げた。それは狂気的であり、なおかつ青春じみている。晴天は祝福も批判もせず、ただ黙ってこの光景を見下ろしていた。
告白などとうの昔に済んでいた。毎度あきれて笑うような熱量の愛も十分すぎるほど受け取った。だというのに。
本当にばかな人だ。きっとその言葉を届けたい相手がどこにいるのかわからないから、どこにでも届きそうなこの場所で叫んでいるのだろう。残念ながら自分はその視線の先、天にも星にもいないというのに。自由で、でも以前よりずっと小さく見えるその背を見つめた。
彼の中で自分が占める割合は、自分が想像しているよりもずっと大きかったらしい。それは逆も然り。
まさに運命と呼ぶにふさわしい出会いだったのだろう。だからこそこんなことになってしまったのだ。
もしくは、未だこうして自分がこの人のそばに居るからだろうか。いるはずのない自分の存在が何かしら精神に影響を与えていると言われても否定はできない。
ただ、今更離れてやるつもりもないのだ。
これを呪いだ祟りだと思うのなら、どうぞそう呼べばいい。恋情なんて皆等しく狂気であるのだ。でなければ世界の中心で愛を叫ぼうだなんて思いつくはずもない。
心残りなんてなさそうに、未来に希望を持ちながら宙に踏み出す彼の背へと透ける手を伸ばして、すり抜けたフェンスの先で抱きしめた。
「やっと、やっぱり、また会えた」
目が合って、見開いて、涙は上に落ちていく。誰にも邪魔などされようのない、世界一幸福な再会の時だった。
そうして二人、地上に降り立ったのなら。自分たちだけが聞けるその声で、待ち望んだ「愛してる」でも人目をはばからず笑って言い合おうか。
【愛を叫ぶ】
白い、いくつもの小さな花弁がひらひらと羽ばたき、宙を踊る。
春を実感し、その光景を眺める貴方の髪が、風に吹かれて溶けていく。周りの花に馴染んで消えてしまいそうな優しい香りがした。
無意識のうちに身体を寄せようとして、止めた。
貴方には少し大きいブラウスが柔らかくその裾を揺らし、不思議そうにこちらを振り返った貴方に口を開きかけた。止めた。なんでもないとまた微笑んで誤魔化した。
貴方は天使なのかもしれない。
崇高で、美しく、この世界には相応しくない。
触れることも、声を掛けることすら毎度躊躇ってしまう。しかし隣にいたかった。
春に貴方を見ると不安になる。
よく似合いすぎているから。貴方のためにこの季節はあるのだと錯覚してしまう。春が終わったら、元からそこにはいなかったように丸ごと消えてしまうような気がして。
そんなことはないとわかっている。
どれもこれも、自分が勝手に見た幻想であり、一人で吐いた妄言だ。貴方は自分と同じ人間で、本当は手を伸ばすことだって容易で、いや、手を伸ばさなければこれは続かないと。わかっている。
一度かけてしまった色眼鏡はそう簡単に取れそうもなかった。
だからこそ気軽に貴方へとまり、その四枚の花弁を休ませられる一頭が異様に羨ましく映ったのだ。
【モンシロチョウ】
明日世界はなくなるんだって。
なんの前触れもないその言葉に、また君得意のもしも話かと軽く笑った。
指先で触れたグラスが冷たくて心地良い。君の注文したアイスティーはもう半分に減っていた。
同じことを繰り返すだけの日々だからこそ、そんなくだらない彩りは必要なのだと続ける君に同意して、話に乗る。
「もしも、そうだとしたらあなたはどうする?」
君は少し前に身を乗り出して、興味津々といった表情で首を傾げた。
「そう、そうだなぁ……。多分実感が湧かないまま、また普通に明日は来るんだって信じて寝るんじゃないかな」
「夢がないね」
まるでその答えが来ることを知っていたように目を細める君。
だっていつだか話題になった世界滅亡の予言だって結局嘘っぱちだったんだ。今回もそうかもしれない。
それに、どうせ世界がなくなるのなら夢なんてあっても仕方ないじゃないか。きっと夢のひとつでも叶えたら、実行に移せなかった夢がひとつ、またひとつと浮かんで止まなくなる。予め知ってしまった最後を未練ばかりに埋もれて迎えるのは、宝の持ち腐れというものだろう。かといって自分の返答がその知識を活かしきれているかと問われれば、何も言えないのだけれど。
「なら君は?」
空想を見て、いつも世界を楽しく生きようとする君なら、きっとさぞ夢のある答えを返すのだろう。そんな意味を込めながらその丸い目を見つめ返せば、君は随分丸くなった氷をからからとストローで混ぜた。その目は外から射し込む光をめいっぱいに受け入れて輝いている。君は少しだけ考える間をとってから、勿体ぶるように口を開いた。
「あたしはねぇ、告白でもしたいな」
「告白? なんでまた」
「臆病だから。そんくらいでっかいきっかけでもないと動けないの」
あと、なんかドラマチックでしょ。そう言って何故か得意げな顔をした君は、またアイスティーをひと口飲んだ。
臆病者なら世界の終わりという事実に怯えて行動を起こすどころではないのではとも思ったが、所詮はもしもの話なので、君をそのまま理想に浸らせてやることにする。告白する前には教えてよ、応援してあげるからさ、なんて軽口をたたいた。
「あとは、あとはー。好きなもの食べて、また明日、って言いたい」
「明日がないって知ってるのに?」
「知ってるのに」
やっぱり君の感性は自分のものとは大きく離れているようだった。君はどこまでも劇的なシチュエーションを追い求める主義らしい。自分はそれを自身であらわすタイプではないものの、君の話す非現実は好きだった。だから、願うならば世界最後の前日も、こうして君とどうでもいいもしもの話でもしたい。
何だか照れくさくて、それを本人に伝えることはなかったが。
窓から見た陽は傾いている。テーブルの上には空のグラスが二つ。話もひと区切りついたところで、そろそろ帰ろうかと席を立った。
「じゃあね、また明日」
別れ際、手を振った君の表情は逆光で見えなかった。
【明日世界がなくなるとしたら、何を願おう】
ここに縛りつけられている。
簡素な額縁に頬杖をついて、熱心なその横顔を眺める。片手のパレットも、沈黙の間に時折キャンバス上を撫でる絵筆も、それらを持つ骨ばった手も、迷走の果てに作り出された複雑な色合いで汚れていた。
深く記憶を探るように眉間に皺を寄せ、自分の描いた彼女があの愛しい人と重ならない原因を探してはまた色を厚く重ねる。鮮明に残った写真でさえ、貴方は複製物だと悲しく笑ったのに。折り跡が付き、少し色褪せたそれを横目で見て、未完成ながら瓜二つな自分の姿に虚しさをおぼえた。
ああ、なんて笑える話だろう。私は神様には選ばれたかもしれないが、貴方には選んでもらえなかった。
意志なんて奇跡が付与されても、結局貴方にとっては失敗作だったのだ。今は離れた場所から眺めることしかできない、その狂気的なまでに真剣な表情は、以前は自分に向けられているものだった。
私があの人に近付く度に貴方は捨てられない思い出を語り、時には涙を滲ませた。そのどれもが私そのものに向けられたものでないとわかっていても、私を構成する絵具に込められた想いが他人事で済ませてはくれなかった。
ひどい人。私は本物にはなれなかった。所詮は人工的に色を練って生み出された塊。人の記憶は望まずともねじ曲がる。本物に、実在していた人間に成り代わることなんて到底無理なことだった。別人として名前を付けて貰うこともなく、もうその恋焦がれるような眼差しを正面から受けることも叶わず、それでも何処かへ行くこともできずに愚かな貴方を見続けている。
「いつまで続けるの、それ」
納得できない複製を生み出し続けても何の得もない。貴方がいつか本物と見紛う彼女を描き出すことなんてきっとない。消化できない過去を抱えて無為に時間を浪費している。八つ当たり気味に投げかけた言葉は、貴方の閉じこもった檻を壊すことなど出来なかった。
自分の目覚めた奇跡を無意味だと自嘲した。
なのに貴方の愛しい人を模して生まれてしまったからか、それとも生み出したのが貴方だからか。私が愛されることがなかったとしても、貴方を見放し、目を閉じることなど出来そうもないのだ。いつか向けられたあの瞳を忘れることなど出来そうもないのだ。
自覚してしまったこの感情は本当に単純でいやな呪いだと、シンナー混じりの重いため息をついた。
【君と出逢ってから、私は】
「……ぇ、ねぇってば。起きて、こら」
ぼやけた聴覚に聞き慣れた声が入り込む。ぼすぼすと無遠慮に腹部を叩かれる。それを知覚すれば、微睡んでいた意識は徐々に声の主がいるところまで浮かび上がってきた。
今日は晴れ。僕を昼寝に誘った心地良い陽光を遮るように、きみは僕のそばで呆れ顔を浮かべていた。
「何してんの、こんなとこで。風邪ひくよ」
今日は暖かいから大丈夫だと適当な返事を返せば、きみは「そういう問題じゃない」と口を尖らせる。芝生に手をついてまだ眠気の残る身体を起こしては、誤魔化すようにくしゃくしゃと頭を撫でてやった。
「きみがいなくなった夢を見たんだ」
それはついさっき、きみが僕を叩き起すほんの少し前
までの話。
「どうだった?」
「きみがいないと、世界は僕にとって広すぎるってことに気が付いた」
なにそれ、と可笑しそうにきみは笑う。どうも詩的で恥ずかしい表現ではあるけれど、これはきっと紛れもない真実だった。
僕の目に映る世界は、きみと分け合うくらいが丁度いい。でないとどこもかしこも自分には不釣り合いに大きく、無駄に見えてしまうから。
「ね、それよりもさ、」
そんな僕の思いなど露知らず、僕を起こした理由から何気ない雑談に移行するきみの声に相槌を打ちながら立ち上がる。見慣れた日常と何も変わらなかった。先程のあれは本当にただの夢だったのだ、よかったと安堵の息をつくことが出来た。
だって空は目に焼き付くほどに覚えのある青色だし、雲は目で追うには緩やかすぎる速度で流れている。
風が吹いて足元の草葉を揺らした。きみは僕の一歩手前を歩き出していて、こちらを振り向いたその無邪気な安心感のある表情に「今行く」と告げる。
僕はふわふわと軽い足を一歩踏み出すと、いつも通りにきみの隣を歩くため、質量のない地面を蹴った。
【大地に寝転び、雲が流れる。目を閉じると浮かんできたのは】