ひとつ、壁にかかったあの巨大な布を捲らないこと。
ふたつ、色の違う、取手の生えた四角い壁に触れないこと。
みっつ、部屋の外側から聞こえる音に耳を貸さないこと。
たったみっつの約束ごと。
ルールとは、私を守るためにあるものだと。
それさえ守れば、私が望んだ、何者にも脅かされない暮らしは手に入るのだと、その人は言いました。
ですから目の前に立てられた三本の指を見て、私はわかったと頷いたのです。
本とCD、眠る場所と座る場所。私を守るように周りを囲む白い壁。頭上でぴかぴかと光る白い球。
私にとって必要な世界は四角く区切られたふたつの部屋だけで、片方は身体を清潔に保つためだけの部屋でしたから、私はほとんどの時間を広く、物が多い方の部屋で過ごしました。
お腹のあたりがへこんで、背中とくっつきそうだと思ったら、棚にある缶詰を開けて食べる。
瞼が重くなって、開いたページに並ぶ文字列を認識することが難しくなってきたのなら、柔らかな寝床へと横になって眠る。
壁の向こう側の音を気にしないために、部屋の中をずっと音楽で満たす。
本の内容はよく分からないものばかりだったけれど、読める文字を繋ぎ合わせて考えることは好きでした。
眠って、起きて、食べて、読んで、捲って、考えて、洗って、眠って、起きて、待って、食べて、眺めて、
そうやって過ごすのです。
波風ひとつ立たない。まるで他人の人生を眺めているかのような、遠い感覚がずっと続いている。この場所にあるのは、確かに私が望んだ平穏でした。
私にこの約束ごとを取り付けたその人はといえば、いつだか私が目を閉じている間にいなくなってしまいました。
それから今まで、顔も声も思い出せなくなるほどに見かけていません。ただ、私の心にいつも温かな感情を与えてくれる人だった、という印象だけがふんわりと残っています。きっと大好きな人でした。
今も、これからも、その気持ちだけは大事に抱えていこうと思います。
けれど不思議なもので、はじめの頃は減らなかった缶詰も、近頃は減っていく一方なのです。床に散らかった物たちは、寝て起きても元の場所に戻らなくなりました。
天井の光は次第に弱くなり、蛇口を捻っても水は出てこなくなる。CDプレイヤーから流れる音は、ぷつぷつとノイズが混じるようになりました。
私は頭もよくなくて、何かを覚えているのも得意じゃない。そんなまどろみの中で生きているような私でも、こればっかりは気が付いてしまいました。
終わりが近いのだと。
変わらないものはありません。
何度も読み込んだ本はページの端が折れ曲がって、紙は黄ばんで文字は掠れていく。ふかふかだった布団は、潰れて、薄くなっていく。よく現れてくれたあの人は、何も言わずぱたりと消えてしまう。
人は次第に弱って、死んでいく。
恐ろしいものです。それは、はたらかせようとした頭が真っ白になるくらいに恐ろしいものなのです。
だから。だから、脆くなった壁をすり抜けて迫り来る恐怖と不安から逃げるためには、たったみっつの決まりごとのどれかを破る他に、もう道はありませんでした。
埃と髪の毛が覆う床を踏んで、薄暗い部屋の中をぺたりと歩く。爪の伸びた指先でスイッチを押し、もう途切れかけの音楽を止める。壁にかかった布の端をつまむ。
心臓が早鐘を打っていました。口から零れる息と、手と、足が震えていました。けれどももうここにだって平穏はないのです。
鮮明に聞こえるようになった外の呻き声たち。
私がゆっくりと捲った布の向こう側、透明な板を通して見えた本当の世界の天井は、空は、目を焼くほどの赤色でした。
【ルール】
昼下がり。まだ高い位置で燦々と空気を温める太陽の光から逃れるように、影の中で庭を眺めていた。
木の根元に寄り添う岩の上へハンカチを敷き、椅子替わりに腰掛ける。さあっと風が吹いて、私の髪を、足元の芝生を撫でていく。点々と落ちる光の模様があちらこちらを忙しなく行ったり来たりしていた。
「なあ」
左右に揺られ、擦れ合う葉の音を聞く。足元から、頭上から、風に呼応してざわめく植物たちの声に紛れたその呼びかけを、私の耳が聞きとめる。
「あんたは来ないの」
無愛想な表情でこちらをじっと見つめる少年。他の皆が一目散に遊び場へと駆けていく中、その子だけが私の元に来てその足を止めた。彼が立つのはじぐざぐな境界線の向こう側。適度に日に焼けた、健康的な肌色がよく似合う。
会話に応じるため、私は膝の上で開きかけていた記録用の手帳をぱたんと閉じた。
「私には暑すぎるからね。私のことは気にしないで、みんなと遊んできなよ」
ちゃんと見てるから、と微笑んでみせる。こうしている間にも、彼の後ろの広い日向では、幾人かが集まって何かを始めようとしているみたいだった。丁度いいと参加を促して視線とあごで指し示すも、彼は不満げに口をむっとさせて動こうとしない。
向こうがこちらに『おーい』と手を振って呼び掛けているのが目に入った。同時に、少年の視線がそれに反応したのも。
「……呼んでるよ。いいの」
「あんたが行くなら行く」
「なんでさ」
彼があまりに強情だったので、思わず笑いが零れた。
慕われているのは単純に嬉しい。けれど折角の自由時間だ。私は彼が歳の近い仲間たちに囲まれて、明るいところを自由に駆け回っている姿も見たかった。
ひとまず、今か今かと遊びの開始を待ちわびている集団に、先に始めていていいぞと身振り手振りで合図を出してやる。きちんと伝わったらしく、そう経たないうちにきゃあきゃあと楽しげな声が響いてくる。
この賑やかさは平穏な日々の象徴だ。無意識のうちに表情が緩むのがわかった。
「この前はもっと近くにいたじゃん。あいつらもあんたがいた方が嬉しいよ」
「いつもの日傘が壊れちゃったんだよ。最近は風の強い日が多かったから」
私の言葉を肯定するように、一際強い風が辺りを通り抜けていく。体の小さな子供たちは、ばふばふと空気の入り込んだ服の裾を暴れさせながら、それでもちゃんとふたつの足で鮮やかな緑を踏む。私を強い日差しから守ってくれる木の枝たちも、上で風と踊っていた。大人と子供を分ける色の境界線が激しく移動し、時折少年の顔にも葉先の影がかかる。なんだか悪い気持ちになって、もっと近くにと手招きをした。
「ほら、涼しいだろう。一通り遊んで、そんで疲れたらまたこっちに来ればいい。誘われてるんだから、行かないのは勿体ない」
まだ納得のいかないような顔をしている少年の頭をぽんぽんと撫でた。伸ばした腕に小さな陽だまりがちらちらと当たって暖かい。私にとってのお日様はこれくらいで十分だった。
もうほとんど褪せてしまった思い出の中、温かさに全身を浸してあの子たちと同じように走り回っていた幼い自分と彼らを重ねる。そういえば私も、日陰から出たがらない母親を懸命に引っ張り出そうとしていたような気がする。懐かしさを覚えながら、少年の柔らかな髪から手を離す。
「じゃあ俺の影にいればいいよ」
「はは。素敵な提案だけど、君は私を覆うには小さすぎるなぁ。彼と同じくらい大きくなってから出直しておいで」
後ろにそびえる木を指しながら冗談めかして笑う。そのためには沢山遊んで、沢山寝て。好き嫌いしないでいっぱい食べることだね、なんて付け加えた。
彼は聞いているのかいないのか、しばらく何かを考え込んでから「わかった」と案外素直に頷く。明るい方へと戻っていく少年を手を振りながら見送って、私は改めて手元の手帳を開いた。
子供たちの様子、午前中にあったこと。向こうで遊ぶ彼らの様子を時折眺めながら書き記していた最中、しばらくも経たないうちに少年が戻ってくる。
近付いてくる足音に顔を上げれば、その手にはまだたくさんの葉がついた大きな枝があった。
「朝、向こうの森の方に落ちてたんだ。風が強いって言ってただろ、それで折れたんだと思う。あんたの傘みたいに」
「本当は秘密基地に使おうと思ったんだけど。貸してやる。これなら小さすぎるなんてことないだろ」
私は目を丸くして彼とその枝を見つめてから、思わず吹き出した。
「そう、ふふ、そうだね」
「なんだよ」
「いや。ただ可愛いやつだなぁと思っただけだよ」
【後日加筆】
朝、家を出た時はまだ平気だったような気がする。
道端に設置された自動販売機の横、羽織ったアウターの防寒性に疑問を抱きながら、丸い外灯の光をぼうっと見上げていた。スーツの下の腕や脚の表面が、寒さにじんわりと鳥肌を立てている。
ああ、でも、朝は太陽が出ていたからか。日が落ちてしまえば、冷えた空気を温めるものは人工物の他には何もない。常に最適な室温を保ってくれる空調設備とはかくも偉大なものだったのか、と文明の発展に改めて感謝の念を覚えた。
縁のところを爪の先で引っ掛けてぶら下げていたドリンク缶を、片手にしっかりと持ち直す。それだけで指は、手のひらは、ずっと上着のポケットに突っ込んでいた方の手よりも簡単に温かさを得ることができた。
取り出し口から出てきた瞬間は、一度手を引っ込めてしまうくらいには熱かったけれど、なんて、素手で掴んだ缶を見やる。
吐いた息はまだ白い煙として可視化されることはないが、確かに季節は移ろっていて。
仕事や生活に夢中になって、ほんの少し景色を見逃せば、あっという間に月日は過ぎ去っていく。こんな風に、例外的にふと足を止めた時、ようやくそのことに気がつくのだ。
なんだか感傷的な気分に浸ってしまうのも、露出した耳を赤くなりそうなほど冷やすこの寒さのせいか。
カッ、カッ、と音を立てるだけの空振りを数度繰り返して、これ以上ぬるくならないうちにとプルタブを開けた。
「何飲んでんの」
路地とは言えないまでも、ここは人通りの多いような道ではないからとすっかり気を抜いていた。
大した思考にふけるわけでもなく、星一つない暗い空を、町並みと明かりをただぼんやりと目に映し、缶の飲み口を唇に付けていたところを、突如真横から聞こえてきた声に引き戻される。
思わず顔をそちらに向けたものの、冷静に考えれば私に掛けられたものだとは限らない。瞬時にそう思いなおしたのだ。が。
こちらを見上げる、つんとした顔の少年と目が合った。
「え」
「だから、何飲んでんのって」
困惑をあらわに声を漏らす私に対し、少年は声色に若干の不満を滲ませて同じ質問を投げかけた。
知らない顔。周囲に友人らしき子の姿はない。
制服姿にリュックサック、近くの学校のものだろうか。この辺りは地元でもないため詳しくは知らないが。
ここまで明確に話しかけられている以上、無視するのもなんだかなぁ、と彼に向けて冷めた缶を軽く振ってみせる。
「スープ」
既にもう残り半分を切ったそれは、正確に言えばシチューだった。 少年は眉をひそめながら、その見るからに温かさを売りにしている暖色系のパッケージに視線を移す。彼の指先が、自販機のダミーラベルの中でも右下のあたりを指した。
「それって、これのこと」
「そうだけど」
寒さの目立つこの季節が近付いてくると現れ始める、いわゆる変わり種。それらを購入するのは、いつからか私の僅かな楽しみになっていた。
たまに見かける、よく分からないスイーツ系の飲料や適当なものと混ぜた炭酸ジュースと比べて、スープ類は美味しいものが多いような気がする。
大体同じような位置に追いやられているとはいえ、メーカーの本気度が違うのか。
外気に晒された手指の先がかじかむ頃、冷たい空気を吸って体の芯が震え始める頃、これ一本でどちらの感覚も温もりで満たしてくれるのだからありがたいことだ。そう思いながら、すっかりそのありがたみが薄れた中身を流し込む。細かな具材が微妙に缶の中に残ってしまったが、今の私に彼らを救い出すすべはない。
たったそれっぽっちのことに、少しばかりの無力さと名残惜しさを覚えた。
少年は薄暗がりのなかで煌々と光る商品一覧を眺めてしばし迷うように指をさ迷わせていたが、結局ホットカフェオレのボタンを押したようだ。
人に聞いたくせに買わないのか、と心の中で突っ込んだものの、結局は赤の他人の選択だ。横目で少年がペットボトルを取り出す様を見届けて、そろそろ立ち去ろうと寄りかかっていた壁から体を離す。
「おば……お姉さんはさ」
まさか会話が続くとは。
少年は指先の冷たさを溶かすように、購入したカフェオレを両の手で包み込んで私の横に立った。
「さっきまで何してたの」
夕方と呼べなくもない時刻。夜みたいな顔をして町を覆う暗い空には寂しさを感じる。どうせ、家に帰ろうと誰も待ってなんかいないわけで。
なんとなく。
こちらに視線を向けるわけでもなく、ただ淡々と、何気ない雑談として聞かれた質問に少しだけ付き合うことにした。
「特別なにかしてたってわけじゃないけど。強いて言うなら、考え事してた、かな」
「何を」
「寒いなぁって」
「思ってたより中身ないんだね」
なにひとつ返す言葉がない。呆れたような笑い声を零しながら、生意気な少年はペットボトルのキャップを捻る。
「君は。学生の下校時間には遅いけど」
「そうかな。部活とかあったらこんなもんでしょ」
そう言われればそうだったような気もするし、自分はさほど熱心にクラブ活動に勤しむタイプではなかったために、現役学生の言葉には納得せざるを得なかった。
ふぅん、と頷いて、近くのゴミ箱に空き缶を捨てる。
日が短くなったせいで、視覚から想像する時間帯が頭の中のイメージとずれているのかもしれない。午後五時の風景だって、今の時期じゃあ夜の景色とそう変わらない。
「もう冬だなぁ」
ポケットに両手をしまい込み、なんとはなしに雲の広がる空を見上げてはそう呟いた。
遠くで飛行機のライトがたった一つ、星のように点滅しているのが見える。UFOだと思い込んでいた幼い頃を思い出した。
肩に掛けていたバッグの紐がずり落ちそうになって、元の位置に直す。
「冬なら。雪、そのうち降るかな」
「さあ。それはまだ先かもね。好きなの、雪」
「いや別に。冷たいだけだし、滑るじゃん」
子供らしくない理由の否定を述べながら、少年は早くもカフェオレを飲み干した。底の方に溜まったままの濃い茶色を、ほんの数滴ほどしかない飲み残しに溶かすみたいにペットボトルを揺らしている。
話しかけてきた時からあまり変化のない無愛想な表情で、彼は私に釣られるように空へ視線を移した。
「いつもここにいるの」
「いつもじゃないよ。今日はただ、普段より早く仕事が終わって……たまに、こうやって好きな飲み物買ってさ、ぼーっとする日があるっていうだけ」
家に比べれば身体が休まることはないけれど、大切にしたい時間ではあった。時折足を止める必要がある。
社会に情緒やら感性やらを持っていかれないように。
でなければ、季節の移り変わりも周期的な環境の変移として流したまま一年を終えてしまいそうだから。
それは、人生の使い方としてなんだかもったいない。と、思った。
「次はいつ来る?」
「えぇ。そう、だね」
予想外の質問に戸惑う。何を考えているのか、少年は
こちらをじっと見つめている。
「雪、が。降ったらかな。そうしたら、多分また来るよ」
その頃には、自販機に並ぶスープのラインナップも変わっているかもしれない。駅やショッピングモールみたいな施設にあるような、利用者が多い場所のものではないけれど、もしかしたら。
少年からペットボトルを受け取って、代わりにゴミ箱へ捨てる。
もう熱をもって私たちを温めてくれるものはなくなった。ここに留まる理由も。
「じゃあね。風邪ひかないように気をつけて」
無言で別れるのも違う気がして、友達にするみたいに微笑んで軽く手を振った。
「うん。じゃあね」
素っ気なく、けれど少年からも確かに手を振り返され、また寒さを訴え始めていた身体がほんの少し気にならなくなる。
もしもこの先の日、お互いが今日の話を覚えていたのなら。今度はまた違う飲み物でも勧めてみようかなと考えた。雪に凍えた手を瞬時に火傷させるような、あったか〜い缶のやつでも。
【冬のはじまり】
全ての輪郭が曖昧にぼやけて、隣り合うものとものの色が滲んでいる。僕の目から見える世界は、いつだってこの形が正常だった。
それをはじめて知った君は「あまり目がよくないんだね」とあわれむように声色を落としたっけ。
それでも良かった。
だってその代わりと言ってはなんだけれど、僕の耳は君よりもずっと遠くの音までよく聞こえたし、僕の鼻は君の感情の機微まで判別できるほどよく利いた。
君は僕の足りない部分を補って、僕もそれに答える形で君の知り得ないことを教えてあげる。
僕たちふたりが一緒にいれば、きっと敵うものなんて何もないと思えた。
世界をようやく自分の意思で認識できるようになった時から、君は僕のそばにいた。
初めて君を見た時、僕の目に君は、ちっともわからない音の羅列をごにゃごにゃと発する、大きい、知らないいきものに映った。ただ、そういえば最初からいやな匂いはしなかったっけ。
君は僕の汚れた毛並みを気遣うようにそっと触れて、抱き上げてくれた胸元でなんだか鼻の奥がツンとなるような温かさに包まれたことを覚えている。
感触も、匂いも、僕自身とは何もかも違うのに、落ちないように寄せた体から聞こえてきた心臓の鼓動だけは一緒だった。それは今もずっとそうだ。
それから君が長い時間を費やして、辛抱強く歩み寄ってくれたお陰で、僕は随分君に近付けたような気がする。
身体はもうすっかり大きくなって、今や君を追い越してしまった。似た肌色をさらけ出したすべすべの地肌が君と同じように覗いている。
食器の使い方も上達したし、他とは違って大きくて目立つらしい耳の隠し方だって身につけた。何より君と同じ言葉を使って意思疎通ができるようになった!
まだたどたどしい発音でも、君は優しく頷いて、ゆっくりと噛み砕いて、理解してくれる。会話をしてくれる。君の優しさを理解できたこと! それが何より嬉しかった。
欲を言うならば、君がよく静かに見つめている「本」の中身を自分で読むことが出来ればもっといいのに。読んで聞かせるには長すぎる、と断られるのはそう珍しいことではなかったから。
それに、そう言う君からはたまに、何か、もやもやと煮え切らない匂いがする。大したことじゃないけれど、その正体を知りたいとも思った。
「今日は恐ろしい怪物がやって来るから、もうお眠り」
月に一回、いつもよりずっと早い時間に、君にそうやって寝室まで連れていかれる日。
君は心配性だから、僕が怪物に見つからないようにと隙間なくぴったりカーテンをしめて、僕の額にひとつおやすみのキスを落としてから部屋を出ていく。
僕が意識を夢の中に沈めるまで、ずっと扉の前に感じる君の気配は、僕のことを守ってくれているのだろうか。
僕は君よりずっと世界を知らないから。君と暮らすこの家と、周りに広がる森や町のうち、ほんの少しだけ。君がくれる安心だけを受け取って生きている。手を引いて、照らしてくれる道だけを歩んで生きている。
だから今日もそうするつもりだった。
おやすみの挨拶を君に返して、まだあんまり眠くないと訴える瞼を大人しく閉じて、暗闇の中で柵を飛び越える羊の数を数えて待つ。
そうしたらじきにふわふわと思考が解けていくから。
でも。外に、知らない複数の足音が現れた。
怪物が来たんだ。そう思って布団を深くまで被り、息を潜める。どうか過ぎ去るようにと願っていた足音たちは、この家の近くでその動きを止めた。
ドアを荒々しく叩く音。君の気配が、息が、慌てたようにそちらへ駆けて行く。
じっと、ほとんど息を止めていたと思う。自分は今、いないものであると言うように。
ガシャンと物が壊れる音。ぎゃあぎゃあと責め立てる怒号。今まで君が遠ざけてくれていた騒音が押し寄せている。その中に、君を聞き分けた。嗅ぎ分けた。
「やめて」と。「ここにはいない」と。平穏を、僕を守る言葉が。痛みと拒絶と深い悲しみを抱く匂いが。
僕の胸をひどく叩いた。
恐怖に震える体を奮い立たせて、ベッドから飛び上がる。君の言いつけを破るのは心が傷んだけれど、ここで積み上げてきた幸せが壊される方がもっと嫌だ。
寝室を駆け出して、玄関へ一直線。
勢いよく開け放った扉の先、真っ先に目に飛び込んできたのは、こちらに背を向ける、怪我を負った君と、それを囲む何人もの人影。
それから、遥か上、木々の隙間を抜けて全てを照らす白い光。
僕のぼんやりした目にも焼き付くような真ん丸のそれは、途端に僕の全身の毛をざわざわと逆撫でさせた。
うるさかった人間たちの声がぼわっと一度籠ったかと思えば、次の瞬間にはもう何も判別できないくらいに騒がしく鼓膜をふるわせる。
隠して、うまく取り繕えるようになっていた外側が、君と違うものになっていく。
抑えようと深く吸い込んだ空気は、知らない匂いで充満して落ち着かなかった。歯を食いしばる。
恐怖はいつの間にか抑えようのない怒りになっていた。
「化け物が!」「人に化けた野蛮な獣め!」
頭の中で反響する怪物の声がうるさくてうるさくて、苦しくて。整理のつかない感情をむきだしにして、全てを追い払いたくてがむしゃらに手を振り続ける。
いやな匂い。声が減るたびに頭の中はすっきりするけれど、代わりに鼻を曲げたくなるような、思わず眉をしかめるような匂いで満たされていく。それを振り払うように、なくすために今度は口を裂けんばかりに開いて、そうしたら、
「────めて! お願い、お願いだから止まってよ、ねぇ────!!」
間近に迫った塩っぱい匂い。温かくて、鼻の奥がツンとなるような。僕を、呼ぶ言葉。
周りが随分静かになってからようやく、僕の耳は聞きなれた声を拾ってくれた。
毛むくじゃらの僕を引き留めるようにしがみついて、これ以上ないくらいにぼろぼろと涙を零し続ける君をじっと見下ろす。惨状なんて見なくてもわかる。
怪物は僕だった。
急激に冷めた熱は精神的な痛みとなって襲いかかる。
胃の中のもの全てを吐き出しそうな気持ち悪さと、未だ残る身体中のざわめきが僕の感情をぐちゃぐちゃにかき乱す。
違う。違うんだ、僕は、君を守りたくて。
言い訳は覚えたはずの言葉にならず、あやふやなうめき声として吐き出されるばかりだった。
人でありたかった。人間に、なりたかった。
君がそう導いてくれたように、守ってくれたように。
今更どうしたって叶うことのない願いを涙として溢れさせながら、抱きしめ返す資格のない腕を垂らした。
あるいは。
僕がちゃんと怪物であれたなら。
煌々と輝く月の輪郭をはっきりと捉えて、最後まで何もかもを忘れて暴れるだけの獣に成り下がれたのなら、僕はこの苦しみを覚えずに済んだだろうか。人に、君に、救いようのない化け物として終わらせてもらえただろうか。
唯一同じだった命の鼓動も、今や自分のものだけ酷くいびつに聞こえた。
全てが中途半端だったせいで。
「ごめん……ごめん、ね」
月夜への遠吠えだって嗚咽に呑まれて満足にできやしない。誠意を持って君の目を真っ直ぐと見据えることさえもできない。
せめてこんな僕に今まで寄り添ってくれた君には精一杯の愛と恩返しを。
したかった。
【不完全な僕】
「パンパカパーン! 君、目の下に隈のある、明らかに幸の薄そうなそこの君! 厳正なる抽選の結果、君は私に選ばれました!」
その高らかな声が響くと同時に、真上で傘でも広げたかのような影が落ちた。
大学からの帰宅途中、片手にスマホをぶら下げて、
ひとりとぼとぼ歩いていた僕の前に、突然現れた人の顔。
それは何故か逆さまににゅっと生えるような現れ方をしたものだから、僕は驚きのあまり声も出せずにばたばたとみっともなく飛び退いた。
歩道の小さな段差につまづきかけた姿勢を、転ぶまいと咄嗟に戻す。周囲を通り過ぎていく人の、奇異なものでも見るような訝しげな視線が体に刺さった。
「……は、え、はぁ? な、何、あんた」
「なななんと! 当選確率は世界人口分の一! 君は今この瞬間、世界一幸運な人間になったと言ってもいいでしょう!」
僕の漏らす動揺と困惑の声などお構い無しに、やけに高いテンションの不審者は行先を塞いで何やらまくし立てている。そのくせ周りからの視線は全て被害者の僕の方にだけ向けられるという異常事態。
状況を一切飲み込めないまま、僕に絡む逆さまの人間を呆然と見上げた。
重い課題の提出期限に追われて徹夜が続いたのが良くなかったのだろうか。前々から自分の先延ばし癖は良くないものだと自覚していたが、ここまでくると流石にいくらかの危機感を覚える。いや、今回は教授の設定ミスだか何だかで予定よりも締切日が前倒しになったのが良くなかった。そうでもなければ自分がこんな幻覚を見るはずはなかっただろう。
浮いていたのだ。人が。
僕の真上に覆い被さるような形で、僕の顔を覗き込んであどけない声を響かせていた不審者は、どう見てもなんの支えもなしに空中で留まっていた。
「────い、おーい、聞いてる? えっ、まさか立ったまま失神してるとかはないよね? 駄目だよ道端で。私じゃあ君のこと運んであげらんないんだから。ちょっと、君ってば」
こんなことは現実じゃありえないわけで。くるりと宙で身を翻し、今度は焦ったように、もしくは心配そうな顔をして僕の頬をぺちぺちと叩くような素振りをする彼は、夢か睡眠不足の脳が作り出した幻に違いない。それにしてはあまりに具体的というか、はっきりと存在しすぎているような気もするが。
じゃあそれ以外の一体何だと問われれば、最適な答えは浮かばない。
しいて言うなら、この世のものではない何か、とか。
「いや、いやいやいや。流石にそんなわけ、」
「ある。あるよ、ありまーす。現実逃避も程々にして、そろそろ話を聞いてくれませんかー? 私ってばさっきから無視され続けて傷ついてるんですけどー」
頭に浮かんだ馬鹿げた考えを振り切って足早に歩みを進める。できる限り幻覚のことは無いものとして扱おうとしてみたが、やはりと言うべきか僕の真横をふわふわと着いてくるではないか。
自分のことを認識していると確信を持ってか、ひっきりなしに訴えかけてくるそれにとうとう良心が耐えきれなくなって、僕はついに口を開いてしまった。
「なん、ですか。さっきから」
「おおお! やっと、やっとだよ! 話しかけた時はこんなに苦戦するなんて思いもしなかったんだから……っと、こんな話はどうでもよくって。あのね、私は君にお願いがあるんだよ。他でもない、君に!」
「……お願い?」
ようやく得られた返答に感動したかと思えば、僕の前に躍り出てきてこちらをビシッと指さす幻覚。
その仕草は下手をしたら今まで出会ってきた誰よりも生き生きとしていて、別に必要も無いのだろうが、ぶつからないようにと自然に歩く速度が遅くなる。
不信感を隠す気もなく眉を顰めて聞き返す僕に、それはお願いをする立場とは思えないほど胸を張って堂々と続けた。
「そう! それもただのお願いじゃないよ、ありがたーい『神様』からのお願いだ。
神に選ばれた、名も知らない幸運な青年よ。私のために人助けをしてほしい」
彼はそう言うと、妙に得意気な笑みを見せた。
どうやらこの幻覚は自称『神様』らしい。
喋るほどに信憑性を失っていくその言動を半ば呆れ気味に流せば、自称神様は慌てたように僕の腕に縋って理由を説明し始めた。
曰く、彼は本当にちっぽけな神社に祀られていた神様で、最近はその存在すら人々に忘れられかけているのだと。
人からの畏怖や尊敬を得られないままだと神は衰弱していき、やがて消滅、言わば死を迎えるのだそう。
それは嫌だと悪あがきを始めたのがことの始まり。
まずは手近な道行く人の中から信者を一人獲得(目をつぶっての指差しという適当極まりない方法で選ばれたのが僕である)。
日々信者からの祈りをチリツモで受け取りつつ、その信者を通して人助けを繰り返すことで周囲からの感謝やら何やらを吸収して力を取り戻していく、という算段だったとか。
これが真実か僕の妄想かはさておき、信者候補の人間に半べそをかきながら縋り付く神様というのはいかがなものだろう。尊大さも何もあったものじゃない。
「人だって死ぬのは嫌でしょうが! 今なら初入信特典として私のなけなしの加護もつくから! いいこと起きるから!」
「例えば?」
「急いでる時に当たる信号がほとんど全部青になったりとか。お店のちょっとしたスクラッチや福引で二等くらいが当たったりとか、会計金額の端数が手持ちの小銭ぴったりになるとか……」
後半にいくにつれて徐々に小さくなっていく声。確かにいいことには違いないが。
しかしあまりの必死さに、放っておくのがなんだか可哀想に思えてきたのもまた事実。それに、何より。
ゆっくりとだが進めていた足を止め、彼に向き合う。
「……もしそれが本当だったら、考えてもいい、ですよ。多分、昔からついてなくて。それっぽっちの光景でも見たことないから」
「え。ホントに?!」
「どっちに驚いてんのかわかんないけど、本当。別に無理難題ってわけでもなさそうだし」
事実、彼が最初にかけてきた言葉通り、僕は運が悪かった。毎度赤信号には引っかかるし、どんな抽選にだって当たったことはない。財布にはいつも中途半端に使い切れない小銭たちがたむろしている。今日だって大学構内の自販機に五十円玉が吸い込まれて返ってこなくなった。
話している途中で、自分でも上手くいく可能性は低いと思いかけていたのだろうか。少しばかりしゅんとした表情をしていた彼は、僕の返事を聞いた途端飛び上がるほどの勢いでその顔を上げた。
「一ヶ月。お試しだけなら」
もしこれがただの夢幻ならそれでいい。家に帰って充分な睡眠を取れば、そのうちすぅっと消えていなくなるだろう。
心底嬉しそうに激しく頷き、僕の周りをぐるぐると浮遊して回る自称『神様』との出会いは、果たして僕にとって滅多に訪れることの無い幸運足り得るだろうか。
どこからか転がってきた百円硬貨が、踏み出した僕のつま先にコツン、とぶつかってまたいなくなった。
【神様が舞い降りてきて、こう言った】