朝、家を出た時はまだ平気だったような気がする。
道端に設置された自動販売機の横、羽織ったアウターの防寒性に疑問を抱きながら、丸い外灯の光をぼうっと見上げていた。スーツの下の腕や脚の表面が、寒さにじんわりと鳥肌を立てている。
ああ、でも、朝は太陽が出ていたからか。日が落ちてしまえば、冷えた空気を温めるものは人工物の他には何もない。常に最適な室温を保ってくれる空調設備とはかくも偉大なものだったのか、と文明の発展に改めて感謝の念を覚えた。
縁のところを爪の先で引っ掛けてぶら下げていたドリンク缶を、片手にしっかりと持ち直す。それだけで指は、手のひらは、ずっと上着のポケットに突っ込んでいた方の手よりも簡単に温かさを得ることができた。
取り出し口から出てきた瞬間は、一度手を引っ込めてしまうくらいには熱かったけれど、なんて、素手で掴んだ缶を見やる。
吐いた息はまだ白い煙として可視化されることはないが、確かに季節は移ろっていて。
仕事や生活に夢中になって、ほんの少し景色を見逃せば、あっという間に月日は過ぎ去っていく。こんな風に、例外的にふと足を止めた時、ようやくそのことに気がつくのだ。
なんだか感傷的な気分に浸ってしまうのも、露出した耳を赤くなりそうなほど冷やすこの寒さのせいか。
カッ、カッ、と音を立てるだけの空振りを数度繰り返して、これ以上ぬるくならないうちにとプルタブを開けた。
「何飲んでんの」
路地とは言えないまでも、ここは人通りの多いような道ではないからとすっかり気を抜いていた。
大した思考にふけるわけでもなく、星一つない暗い空を、町並みと明かりをただぼんやりと目に映し、缶の飲み口を唇に付けていたところを、突如真横から聞こえてきた声に引き戻される。
思わず顔をそちらに向けたものの、冷静に考えれば私に掛けられたものだとは限らない。瞬時にそう思いなおしたのだ。が。
こちらを見上げる、つんとした顔の少年と目が合った。
「え」
「だから、何飲んでんのって」
困惑をあらわに声を漏らす私に対し、少年は声色に若干の不満を滲ませて同じ質問を投げかけた。
知らない顔。周囲に友人らしき子の姿はない。
制服姿にリュックサック、近くの学校のものだろうか。この辺りは地元でもないため詳しくは知らないが。
ここまで明確に話しかけられている以上、無視するのもなんだかなぁ、と彼に向けて冷めた缶を軽く振ってみせる。
「スープ」
既にもう残り半分を切ったそれは、正確に言えばシチューだった。 少年は眉をひそめながら、その見るからに温かさを売りにしている暖色系のパッケージに視線を移す。彼の指先が、自販機のダミーラベルの中でも右下のあたりを指した。
「それって、これのこと」
「そうだけど」
寒さの目立つこの季節が近付いてくると現れ始める、いわゆる変わり種。それらを購入するのは、いつからか私の僅かな楽しみになっていた。
たまに見かける、よく分からないスイーツ系の飲料や適当なものと混ぜた炭酸ジュースと比べて、スープ類は美味しいものが多いような気がする。
大体同じような位置に追いやられているとはいえ、メーカーの本気度が違うのか。
外気に晒された手指の先がかじかむ頃、冷たい空気を吸って体の芯が震え始める頃、これ一本でどちらの感覚も温もりで満たしてくれるのだからありがたいことだ。そう思いながら、すっかりそのありがたみが薄れた中身を流し込む。細かな具材が微妙に缶の中に残ってしまったが、今の私に彼らを救い出すすべはない。
たったそれっぽっちのことに、少しばかりの無力さと名残惜しさを覚えた。
少年は薄暗がりのなかで煌々と光る商品一覧を眺めてしばし迷うように指をさ迷わせていたが、結局ホットカフェオレのボタンを押したようだ。
人に聞いたくせに買わないのか、と心の中で突っ込んだものの、結局は赤の他人の選択だ。横目で少年がペットボトルを取り出す様を見届けて、そろそろ立ち去ろうと寄りかかっていた壁から体を離す。
「おば……お姉さんはさ」
まさか会話が続くとは。
少年は指先の冷たさを溶かすように、購入したカフェオレを両の手で包み込んで私の横に立った。
「さっきまで何してたの」
夕方と呼べなくもない時刻。夜みたいな顔をして町を覆う暗い空には寂しさを感じる。どうせ、家に帰ろうと誰も待ってなんかいないわけで。
なんとなく。
こちらに視線を向けるわけでもなく、ただ淡々と、何気ない雑談として聞かれた質問に少しだけ付き合うことにした。
「特別なにかしてたってわけじゃないけど。強いて言うなら、考え事してた、かな」
「何を」
「寒いなぁって」
「思ってたより中身ないんだね」
なにひとつ返す言葉がない。呆れたような笑い声を零しながら、生意気な少年はペットボトルのキャップを捻る。
「君は。学生の下校時間には遅いけど」
「そうかな。部活とかあったらこんなもんでしょ」
そう言われればそうだったような気もするし、自分はさほど熱心にクラブ活動に勤しむタイプではなかったために、現役学生の言葉には納得せざるを得なかった。
ふぅん、と頷いて、近くのゴミ箱に空き缶を捨てる。
日が短くなったせいで、視覚から想像する時間帯が頭の中のイメージとずれているのかもしれない。午後五時の風景だって、今の時期じゃあ夜の景色とそう変わらない。
「もう冬だなぁ」
ポケットに両手をしまい込み、なんとはなしに雲の広がる空を見上げてはそう呟いた。
遠くで飛行機のライトがたった一つ、星のように点滅しているのが見える。UFOだと思い込んでいた幼い頃を思い出した。
肩に掛けていたバッグの紐がずり落ちそうになって、元の位置に直す。
「冬なら。雪、そのうち降るかな」
「さあ。それはまだ先かもね。好きなの、雪」
「いや別に。冷たいだけだし、滑るじゃん」
子供らしくない理由の否定を述べながら、少年は早くもカフェオレを飲み干した。底の方に溜まったままの濃い茶色を、ほんの数滴ほどしかない飲み残しに溶かすみたいにペットボトルを揺らしている。
話しかけてきた時からあまり変化のない無愛想な表情で、彼は私に釣られるように空へ視線を移した。
「いつもここにいるの」
「いつもじゃないよ。今日はただ、普段より早く仕事が終わって……たまに、こうやって好きな飲み物買ってさ、ぼーっとする日があるっていうだけ」
家に比べれば身体が休まることはないけれど、大切にしたい時間ではあった。時折足を止める必要がある。
社会に情緒やら感性やらを持っていかれないように。
でなければ、季節の移り変わりも周期的な環境の変移として流したまま一年を終えてしまいそうだから。
それは、人生の使い方としてなんだかもったいない。と、思った。
「次はいつ来る?」
「えぇ。そう、だね」
予想外の質問に戸惑う。何を考えているのか、少年は
こちらをじっと見つめている。
「雪、が。降ったらかな。そうしたら、多分また来るよ」
その頃には、自販機に並ぶスープのラインナップも変わっているかもしれない。駅やショッピングモールみたいな施設にあるような、利用者が多い場所のものではないけれど、もしかしたら。
少年からペットボトルを受け取って、代わりにゴミ箱へ捨てる。
もう熱をもって私たちを温めてくれるものはなくなった。ここに留まる理由も。
「じゃあね。風邪ひかないように気をつけて」
無言で別れるのも違う気がして、友達にするみたいに微笑んで軽く手を振った。
「うん。じゃあね」
素っ気なく、けれど少年からも確かに手を振り返され、また寒さを訴え始めていた身体がほんの少し気にならなくなる。
もしもこの先の日、お互いが今日の話を覚えていたのなら。今度はまた違う飲み物でも勧めてみようかなと考えた。雪に凍えた手を瞬時に火傷させるような、あったか〜い缶のやつでも。
【冬のはじまり】
11/29/2024, 5:44:19 PM