全ての輪郭が曖昧にぼやけて、隣り合うものとものの色が滲んでいる。僕の目から見える世界は、いつだってこの形が正常だった。
それをはじめて知った君は「あまり目がよくないんだね」とあわれむように声色を落としたっけ。
それでも良かった。
だってその代わりと言ってはなんだけれど、僕の耳は君よりもずっと遠くの音までよく聞こえたし、僕の鼻は君の感情の機微まで判別できるほどよく利いた。
君は僕の足りない部分を補って、僕もそれに答える形で君の知り得ないことを教えてあげる。
僕たちふたりが一緒にいれば、きっと敵うものなんて何もないと思えた。
世界をようやく自分の意思で認識できるようになった時から、君は僕のそばにいた。
初めて君を見た時、僕の目に君は、ちっともわからない音の羅列をごにゃごにゃと発する、大きい、知らないいきものに映った。ただ、そういえば最初からいやな匂いはしなかったっけ。
君は僕の汚れた毛並みを気遣うようにそっと触れて、抱き上げてくれた胸元でなんだか鼻の奥がツンとなるような温かさに包まれたことを覚えている。
感触も、匂いも、僕自身とは何もかも違うのに、落ちないように寄せた体から聞こえてきた心臓の鼓動だけは一緒だった。それは今もずっとそうだ。
それから君が長い時間を費やして、辛抱強く歩み寄ってくれたお陰で、僕は随分君に近付けたような気がする。
身体はもうすっかり大きくなって、今や君を追い越してしまった。似た肌色をさらけ出したすべすべの地肌が君と同じように覗いている。
食器の使い方も上達したし、他とは違って大きくて目立つらしい耳の隠し方だって身につけた。何より君と同じ言葉を使って意思疎通ができるようになった!
まだたどたどしい発音でも、君は優しく頷いて、ゆっくりと噛み砕いて、理解してくれる。会話をしてくれる。君の優しさを理解できたこと! それが何より嬉しかった。
欲を言うならば、君がよく静かに見つめている「本」の中身を自分で読むことが出来ればもっといいのに。読んで聞かせるには長すぎる、と断られるのはそう珍しいことではなかったから。
それに、そう言う君からはたまに、何か、もやもやと煮え切らない匂いがする。大したことじゃないけれど、その正体を知りたいとも思った。
「今日は恐ろしい怪物がやって来るから、もうお眠り」
月に一回、いつもよりずっと早い時間に、君にそうやって寝室まで連れていかれる日。
君は心配性だから、僕が怪物に見つからないようにと隙間なくぴったりカーテンをしめて、僕の額にひとつおやすみのキスを落としてから部屋を出ていく。
僕が意識を夢の中に沈めるまで、ずっと扉の前に感じる君の気配は、僕のことを守ってくれているのだろうか。
僕は君よりずっと世界を知らないから。君と暮らすこの家と、周りに広がる森や町のうち、ほんの少しだけ。君がくれる安心だけを受け取って生きている。手を引いて、照らしてくれる道だけを歩んで生きている。
だから今日もそうするつもりだった。
おやすみの挨拶を君に返して、まだあんまり眠くないと訴える瞼を大人しく閉じて、暗闇の中で柵を飛び越える羊の数を数えて待つ。
そうしたらじきにふわふわと思考が解けていくから。
でも。外に、知らない複数の足音が現れた。
怪物が来たんだ。そう思って布団を深くまで被り、息を潜める。どうか過ぎ去るようにと願っていた足音たちは、この家の近くでその動きを止めた。
ドアを荒々しく叩く音。君の気配が、息が、慌てたようにそちらへ駆けて行く。
じっと、ほとんど息を止めていたと思う。自分は今、いないものであると言うように。
ガシャンと物が壊れる音。ぎゃあぎゃあと責め立てる怒号。今まで君が遠ざけてくれていた騒音が押し寄せている。その中に、君を聞き分けた。嗅ぎ分けた。
「やめて」と。「ここにはいない」と。平穏を、僕を守る言葉が。痛みと拒絶と深い悲しみを抱く匂いが。
僕の胸をひどく叩いた。
恐怖に震える体を奮い立たせて、ベッドから飛び上がる。君の言いつけを破るのは心が傷んだけれど、ここで積み上げてきた幸せが壊される方がもっと嫌だ。
寝室を駆け出して、玄関へ一直線。
勢いよく開け放った扉の先、真っ先に目に飛び込んできたのは、こちらに背を向ける、怪我を負った君と、それを囲む何人もの人影。
それから、遥か上、木々の隙間を抜けて全てを照らす白い光。
僕のぼんやりした目にも焼き付くような真ん丸のそれは、途端に僕の全身の毛をざわざわと逆撫でさせた。
うるさかった人間たちの声がぼわっと一度籠ったかと思えば、次の瞬間にはもう何も判別できないくらいに騒がしく鼓膜をふるわせる。
隠して、うまく取り繕えるようになっていた外側が、君と違うものになっていく。
抑えようと深く吸い込んだ空気は、知らない匂いで充満して落ち着かなかった。歯を食いしばる。
恐怖はいつの間にか抑えようのない怒りになっていた。
「化け物が!」「人に化けた野蛮な獣め!」
頭の中で反響する怪物の声がうるさくてうるさくて、苦しくて。整理のつかない感情をむきだしにして、全てを追い払いたくてがむしゃらに手を振り続ける。
いやな匂い。声が減るたびに頭の中はすっきりするけれど、代わりに鼻を曲げたくなるような、思わず眉をしかめるような匂いで満たされていく。それを振り払うように、なくすために今度は口を裂けんばかりに開いて、そうしたら、
「────めて! お願い、お願いだから止まってよ、ねぇ────!!」
間近に迫った塩っぱい匂い。温かくて、鼻の奥がツンとなるような。僕を、呼ぶ言葉。
周りが随分静かになってからようやく、僕の耳は聞きなれた声を拾ってくれた。
毛むくじゃらの僕を引き留めるようにしがみついて、これ以上ないくらいにぼろぼろと涙を零し続ける君をじっと見下ろす。惨状なんて見なくてもわかる。
怪物は僕だった。
急激に冷めた熱は精神的な痛みとなって襲いかかる。
胃の中のもの全てを吐き出しそうな気持ち悪さと、未だ残る身体中のざわめきが僕の感情をぐちゃぐちゃにかき乱す。
違う。違うんだ、僕は、君を守りたくて。
言い訳は覚えたはずの言葉にならず、あやふやなうめき声として吐き出されるばかりだった。
人でありたかった。人間に、なりたかった。
君がそう導いてくれたように、守ってくれたように。
今更どうしたって叶うことのない願いを涙として溢れさせながら、抱きしめ返す資格のない腕を垂らした。
あるいは。
僕がちゃんと怪物であれたなら。
煌々と輝く月の輪郭をはっきりと捉えて、最後まで何もかもを忘れて暴れるだけの獣に成り下がれたのなら、僕はこの苦しみを覚えずに済んだだろうか。人に、君に、救いようのない化け物として終わらせてもらえただろうか。
唯一同じだった命の鼓動も、今や自分のものだけ酷くいびつに聞こえた。
全てが中途半端だったせいで。
「ごめん……ごめん、ね」
月夜への遠吠えだって嗚咽に呑まれて満足にできやしない。誠意を持って君の目を真っ直ぐと見据えることさえもできない。
せめてこんな僕に今まで寄り添ってくれた君には精一杯の愛と恩返しを。
したかった。
【不完全な僕】
8/31/2024, 4:23:52 PM