バタン、と車の戸を閉める。技術の進歩に置いていかれた共用車は、私が助手席に乗り込むと僅かに沈みこんだ。
運転席でこちらを待っていた友人、兼同僚は、私がシートベルトを着用したことを認めると、つい先程まで眺めていた携帯端末をしまう。
「用は済んだ?」
「うん。時間を取らせてごめんね」
「どうせ巡回のついでだ。いいよ」
短い会話の後、出発する車。窓の外、遠ざかっていく建物をぼんやりと見送っては若干の名残惜しさを覚えた。
「どうだった、子供たちの様子は」
「みんな元気そうだったよ。とは言っても、今日は軽く眺めた程度だけど」
「なら良かった。献身は無駄じゃなかったな」
「そんなに大層なものじゃないさ」
居住区のはずれにある小さな孤児院に個人的な寄付を始めてから、もう数ヶ月にもなるだろうか。こうして訪れられる機会こそ不定期だったが、その度運営の順調さを確認して安堵することができた。
わざわざ歩み寄らなければ関わり合うこともなかった不特定多数への援助。これが純粋な善意から成せることならば、まさに聖人と呼べるのだろう。
しかし、いくら他者がそう評価しようとも、私は私自身が聖人であると思えなかった。
「お前はいつもそう言うけどさ、俺から見たら十分すぎるんだ。親切も、献身も、心配になる程度にはな。
何がお前をそうさせるのか、全く共感できない。元々お人好しな性格なのかもしれないが」
ハンドルを軽く握り、真っ直ぐと前を見つめながら、真面目な友人はそう零す。
仕事とは関係のない私の頼みを快く引き受けて、運転までしてくれるのだから、君も十分親切じゃないか。
返しかけた言葉は、これまでに何度か同じやり取りを繰り返したことを思い出して心中に留めた。
彼が優しいのは、私が『友人』だからだ。無差別に端から手を差し伸べようとする無謀な私とは違う。
「そう、だね」
交通ルールを遵守して、変わりゆく信号の色に従いブレーキが踏まれる。外からの雑音がくぐもって車内に響いた。
「……例えば。今まで大勢の人の助けになると信じていたものが、実はより多くの人々の犠牲のもと成り立つものだったとして。私はそれを受け入れられない。
結果、確かに救いになるとわかっていても。手からこぼれ落ちた方に意識がいってしまうんだ」
無意識のうちに、膝元に置いた手に力が入る。窓の方に向けた視線からは、目に映るふんわりとした景色以上の情報を取り入れられない。思考は別の方向に引っ張られていた。
「重要なことを知らないままそれに手を貸していた。後悔してるんだよ。だから」
「罪滅ぼしのつもりだって? 直接命を奪ったわけでもないのに。ましてや知らなかったんだろう」
「無知は免罪符になりえないよ。少なくとも、私にとっては」
仮定の話という体であることをすっかり忘れて、勝手に過去を開示してしまったのは、この友人への積み重ねた信頼があるせいだろうか。こちらを見て眉をひそめる彼へ、誤魔化しのように微笑んだ。
都合よく信号が変わる。車は、他に車両の通らない道路を再び発進し始めた。
「うん、ええと、とにかく。君の言う通り、私は元からこういう性格でさ。感情的で、落ち込みやすくて、お人好しなんだ。だから、だから少しでも後悔を増やしたくないと思って人を助ける。ひとりでも多く、誰かの人生をいい方向に向けられたらって、それだけ」
自分のせいでいささか暗くなった車内の空気を入れ替えようと、声色を明るくする。焦る気持ちは言葉のペースを不自然に早めた。相槌はひとつ。追究はなかった。今はただ、それがありがたい。
横顔を見やる勇気こそなかったが、生まれた沈黙は身構えていたほど心地悪くなかった。
『誰かのため』が言い訳であることは自分自身がよく知っている。結局自分が安心したいだけだ。
無関係の人間だろうが見境なく善行を重ねて、罪の意識に押しつぶされないようにしたいだけ。
いい人になれていると思い込みたい。そんな浅ましさだった。
街中の巡回を経て事務所の前に到着し、それぞれ車を降りる。
そういえば、この後は買い物に行く約束をしていたのだったか。
私が頼りないからだろう。私のことを『先生』と呼び慕ってくれる拾い子は、以前に比べ随分としっかり者になった。いつの間にか携帯のリマインダーに登録されていた予定の通知をちらと見て、友人に改めてその旨と今回の感謝を伝える。ひらひらと手を振って事務所の中に戻っていく彼は、ふと何かを思い出したように足を止めてこちらを振り返った。
「あー、親切なのはいいことだけどさ。誰かのために、なんて理由で死ぬなよ。他でもない、お前の友人のためにならないから」
呆気にとられていると、返事をする間もなくその姿は建物の中に吸い込まれる。
『お前のためにならない』とは言ってくれない。その代わりに与えられた『人のため』という存在理由は、私の理想に心が痛むほどよく効いた。
【誰かのためになるのなら】
7/26/2024, 6:34:23 PM