「パンパカパーン! 君、目の下に隈のある、明らかに幸の薄そうなそこの君! 厳正なる抽選の結果、君は私に選ばれました!」
その高らかな声が響くと同時に、真上で傘でも広げたかのような影が落ちた。
大学からの帰宅途中、片手にスマホをぶら下げて、
ひとりとぼとぼ歩いていた僕の前に、突然現れた人の顔。
それは何故か逆さまににゅっと生えるような現れ方をしたものだから、僕は驚きのあまり声も出せずにばたばたとみっともなく飛び退いた。
歩道の小さな段差につまづきかけた姿勢を、転ぶまいと咄嗟に戻す。周囲を通り過ぎていく人の、奇異なものでも見るような訝しげな視線が体に刺さった。
「……は、え、はぁ? な、何、あんた」
「なななんと! 当選確率は世界人口分の一! 君は今この瞬間、世界一幸運な人間になったと言ってもいいでしょう!」
僕の漏らす動揺と困惑の声などお構い無しに、やけに高いテンションの不審者は行先を塞いで何やらまくし立てている。そのくせ周りからの視線は全て被害者の僕の方にだけ向けられるという異常事態。
状況を一切飲み込めないまま、僕に絡む逆さまの人間を呆然と見上げた。
重い課題の提出期限に追われて徹夜が続いたのが良くなかったのだろうか。前々から自分の先延ばし癖は良くないものだと自覚していたが、ここまでくると流石にいくらかの危機感を覚える。いや、今回は教授の設定ミスだか何だかで予定よりも締切日が前倒しになったのが良くなかった。そうでもなければ自分がこんな幻覚を見るはずはなかっただろう。
浮いていたのだ。人が。
僕の真上に覆い被さるような形で、僕の顔を覗き込んであどけない声を響かせていた不審者は、どう見てもなんの支えもなしに空中で留まっていた。
「────い、おーい、聞いてる? えっ、まさか立ったまま失神してるとかはないよね? 駄目だよ道端で。私じゃあ君のこと運んであげらんないんだから。ちょっと、君ってば」
こんなことは現実じゃありえないわけで。くるりと宙で身を翻し、今度は焦ったように、もしくは心配そうな顔をして僕の頬をぺちぺちと叩くような素振りをする彼は、夢か睡眠不足の脳が作り出した幻に違いない。それにしてはあまりに具体的というか、はっきりと存在しすぎているような気もするが。
じゃあそれ以外の一体何だと問われれば、最適な答えは浮かばない。
しいて言うなら、この世のものではない何か、とか。
「いや、いやいやいや。流石にそんなわけ、」
「ある。あるよ、ありまーす。現実逃避も程々にして、そろそろ話を聞いてくれませんかー? 私ってばさっきから無視され続けて傷ついてるんですけどー」
頭に浮かんだ馬鹿げた考えを振り切って足早に歩みを進める。できる限り幻覚のことは無いものとして扱おうとしてみたが、やはりと言うべきか僕の真横をふわふわと着いてくるではないか。
自分のことを認識していると確信を持ってか、ひっきりなしに訴えかけてくるそれにとうとう良心が耐えきれなくなって、僕はついに口を開いてしまった。
「なん、ですか。さっきから」
「おおお! やっと、やっとだよ! 話しかけた時はこんなに苦戦するなんて思いもしなかったんだから……っと、こんな話はどうでもよくって。あのね、私は君にお願いがあるんだよ。他でもない、君に!」
「……お願い?」
ようやく得られた返答に感動したかと思えば、僕の前に躍り出てきてこちらをビシッと指さす幻覚。
その仕草は下手をしたら今まで出会ってきた誰よりも生き生きとしていて、別に必要も無いのだろうが、ぶつからないようにと自然に歩く速度が遅くなる。
不信感を隠す気もなく眉を顰めて聞き返す僕に、それはお願いをする立場とは思えないほど胸を張って堂々と続けた。
「そう! それもただのお願いじゃないよ、ありがたーい『神様』からのお願いだ。
神に選ばれた、名も知らない幸運な青年よ。私のために人助けをしてほしい」
彼はそう言うと、妙に得意気な笑みを見せた。
どうやらこの幻覚は自称『神様』らしい。
喋るほどに信憑性を失っていくその言動を半ば呆れ気味に流せば、自称神様は慌てたように僕の腕に縋って理由を説明し始めた。
曰く、彼は本当にちっぽけな神社に祀られていた神様で、最近はその存在すら人々に忘れられかけているのだと。
人からの畏怖や尊敬を得られないままだと神は衰弱していき、やがて消滅、言わば死を迎えるのだそう。
それは嫌だと悪あがきを始めたのがことの始まり。
まずは手近な道行く人の中から信者を一人獲得(目をつぶっての指差しという適当極まりない方法で選ばれたのが僕である)。
日々信者からの祈りをチリツモで受け取りつつ、その信者を通して人助けを繰り返すことで周囲からの感謝やら何やらを吸収して力を取り戻していく、という算段だったとか。
これが真実か僕の妄想かはさておき、信者候補の人間に半べそをかきながら縋り付く神様というのはいかがなものだろう。尊大さも何もあったものじゃない。
「人だって死ぬのは嫌でしょうが! 今なら初入信特典として私のなけなしの加護もつくから! いいこと起きるから!」
「例えば?」
「急いでる時に当たる信号がほとんど全部青になったりとか。お店のちょっとしたスクラッチや福引で二等くらいが当たったりとか、会計金額の端数が手持ちの小銭ぴったりになるとか……」
後半にいくにつれて徐々に小さくなっていく声。確かにいいことには違いないが。
しかしあまりの必死さに、放っておくのがなんだか可哀想に思えてきたのもまた事実。それに、何より。
ゆっくりとだが進めていた足を止め、彼に向き合う。
「……もしそれが本当だったら、考えてもいい、ですよ。多分、昔からついてなくて。それっぽっちの光景でも見たことないから」
「え。ホントに?!」
「どっちに驚いてんのかわかんないけど、本当。別に無理難題ってわけでもなさそうだし」
事実、彼が最初にかけてきた言葉通り、僕は運が悪かった。毎度赤信号には引っかかるし、どんな抽選にだって当たったことはない。財布にはいつも中途半端に使い切れない小銭たちがたむろしている。今日だって大学構内の自販機に五十円玉が吸い込まれて返ってこなくなった。
話している途中で、自分でも上手くいく可能性は低いと思いかけていたのだろうか。少しばかりしゅんとした表情をしていた彼は、僕の返事を聞いた途端飛び上がるほどの勢いでその顔を上げた。
「一ヶ月。お試しだけなら」
もしこれがただの夢幻ならそれでいい。家に帰って充分な睡眠を取れば、そのうちすぅっと消えていなくなるだろう。
心底嬉しそうに激しく頷き、僕の周りをぐるぐると浮遊して回る自称『神様』との出会いは、果たして僕にとって滅多に訪れることの無い幸運足り得るだろうか。
どこからか転がってきた百円硬貨が、踏み出した僕のつま先にコツン、とぶつかってまたいなくなった。
【神様が舞い降りてきて、こう言った】
7/27/2024, 6:14:08 PM