匿名様

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昼下がり。まだ高い位置で燦々と空気を温める太陽の光から逃れるように、影の中で庭を眺めていた。
木の根元に寄り添う岩の上へハンカチを敷き、椅子替わりに腰掛ける。さあっと風が吹いて、私の髪を、足元の芝生を撫でていく。点々と落ちる光の模様があちらこちらを忙しなく行ったり来たりしていた。

「なあ」

左右に揺られ、擦れ合う葉の音を聞く。足元から、頭上から、風に呼応してざわめく植物たちの声に紛れたその呼びかけを、私の耳が聞きとめる。

「あんたは来ないの」

無愛想な表情でこちらをじっと見つめる少年。他の皆が一目散に遊び場へと駆けていく中、その子だけが私の元に来てその足を止めた。彼が立つのはじぐざぐな境界線の向こう側。適度に日に焼けた、健康的な肌色がよく似合う。
会話に応じるため、私は膝の上で開きかけていた記録用の手帳をぱたんと閉じた。

「私には暑すぎるからね。私のことは気にしないで、みんなと遊んできなよ」

ちゃんと見てるから、と微笑んでみせる。こうしている間にも、彼の後ろの広い日向では、幾人かが集まって何かを始めようとしているみたいだった。丁度いいと参加を促して視線とあごで指し示すも、彼は不満げに口をむっとさせて動こうとしない。
向こうがこちらに『おーい』と手を振って呼び掛けているのが目に入った。同時に、少年の視線がそれに反応したのも。

「……呼んでるよ。いいの」

「あんたが行くなら行く」

「なんでさ」

彼があまりに強情だったので、思わず笑いが零れた。
慕われているのは単純に嬉しい。けれど折角の自由時間だ。私は彼が歳の近い仲間たちに囲まれて、明るいところを自由に駆け回っている姿も見たかった。
ひとまず、今か今かと遊びの開始を待ちわびている集団に、先に始めていていいぞと身振り手振りで合図を出してやる。きちんと伝わったらしく、そう経たないうちにきゃあきゃあと楽しげな声が響いてくる。
この賑やかさは平穏な日々の象徴だ。無意識のうちに表情が緩むのがわかった。

「この前はもっと近くにいたじゃん。あいつらもあんたがいた方が嬉しいよ」
 
「いつもの日傘が壊れちゃったんだよ。最近は風の強い日が多かったから」

私の言葉を肯定するように、一際強い風が辺りを通り抜けていく。体の小さな子供たちは、ばふばふと空気の入り込んだ服の裾を暴れさせながら、それでもちゃんとふたつの足で鮮やかな緑を踏む。私を強い日差しから守ってくれる木の枝たちも、上で風と踊っていた。大人と子供を分ける色の境界線が激しく移動し、時折少年の顔にも葉先の影がかかる。なんだか悪い気持ちになって、もっと近くにと手招きをした。

「ほら、涼しいだろう。一通り遊んで、そんで疲れたらまたこっちに来ればいい。誘われてるんだから、行かないのは勿体ない」

まだ納得のいかないような顔をしている少年の頭をぽんぽんと撫でた。伸ばした腕に小さな陽だまりがちらちらと当たって暖かい。私にとってのお日様はこれくらいで十分だった。
もうほとんど褪せてしまった思い出の中、温かさに全身を浸してあの子たちと同じように走り回っていた幼い自分と彼らを重ねる。そういえば私も、日陰から出たがらない母親を懸命に引っ張り出そうとしていたような気がする。懐かしさを覚えながら、少年の柔らかな髪から手を離す。

「じゃあ俺の影にいればいいよ」

「はは。素敵な提案だけど、君は私を覆うには小さすぎるなぁ。彼と同じくらい大きくなってから出直しておいで」

後ろにそびえる木を指しながら冗談めかして笑う。そのためには沢山遊んで、沢山寝て。好き嫌いしないでいっぱい食べることだね、なんて付け加えた。
彼は聞いているのかいないのか、しばらく何かを考え込んでから「わかった」と案外素直に頷く。明るい方へと戻っていく少年を手を振りながら見送って、私は改めて手元の手帳を開いた。

子供たちの様子、午前中にあったこと。向こうで遊ぶ彼らの様子を時折眺めながら書き記していた最中、しばらくも経たないうちに少年が戻ってくる。
近付いてくる足音に顔を上げれば、その手にはまだ葉がついた大きな枝があった。

「朝、向こうの森の方に落ちてたんだ。風が強いって言ってただろ、それで折れたんだと思う。あんたの傘みたいに」

「本当は秘密基地に使おうと思ったんだけど。貸してやる。これなら小さすぎるなんてことないだろ」

私は思わず目を丸くして彼とその枝を見つめ、吹き出した。

【後日加筆】

7/18/2025, 6:42:37 AM