黒くて大きな怪物はひとりでした。
ひとり、生まれてから途方もなく長い時間を暗い森の木々に囲まれて過ごしてきました。
鳥も、うさぎも、りすも、くまも、みんな怪物を怖がって近寄らなかったものですから、怪物はとっくにひとりに慣れてしまっていたのでした。
それでも怪物は悲しくありませんでした。
耳をすませば絶え間なく植物といきものの声がして、たくさんの目玉をあちらこちらへと注意深く動かせば、いつも新しい発見があるのです。
ついこの間までつぼみだった花がその花弁を開かせているのを見れば、怪物はなんとなく柔らかい気持ちになれるのでした。
そんなある日のことでした。
怪物の前にひとりの人間が現れました。
怪物よりもひと回りもふた回りも小さなそのいきものは、怪物を恐れて攻撃するでも怯えて逃げるでもなく、なんと歩み寄って当たり前のように挨拶をしたのでした。
怪物には人の言葉が理解できません。それでも目の前のいきものは怪物にとって初めての “自分に近寄ってくれるいきもの” でした。怪物はそれにとても喜びましたが、同時にそんな初めての存在にどうしたらいいかわからず困ってしまいました。
怪物はあわてて考えました。どうしたら、どうしたらこのいきものは少しでも長く自分のそばにいてくれるだろうと頑張って考えて、ようやくおずおずとその大きな手を動かしました。ぎゅっと握った手を人間の前まで持ってきて、手のひらを上に開きながら差し出します。
怪物が差し出したのは、きれいな白い花でした。
そう、怪物が日々の観察の中で見つけた花です。怪物はこれを見るといつも心が穏やかな気持ちになりましたから、このいきものにも同じ感覚を与えたかったのです。
不器用な毛むくじゃらの手で摘まれた花は形が崩れてしまっていましたが、それを見た人間は驚いたように二つしかない目を丸くしたあと、ふわりとその目を細めて丁寧に受け取ったのでした。
「ありがとう」
人間は花を大事そうに両手で持ち、そう口を開きました。怪物は意味の理解できないその声に、それでも自分の考えたことが叶ったらしいと喜び、人間のその表情にどこかあたたかく、くすぐったいような感覚を覚えました。
それから人間は度々怪物の元を訪れるようになり、特に何をするでもなく、互いに寄り添って時間を過ごしました。
人間と怪物は友だちになりました。
内容はわからずとも人間の声を聞いて、咲いたばかりのきれいな花を摘んで人間に贈るこの時間が、黒い怪物にとっての新たな楽しみになりました。
たのしい時間を繰り返すにつれて怪物も花を摘むのが上手になり、人間の姿もどんどん変わっていきました。
背が伸びて、声が低くなり、しわが増え、関節が曲がり。怪物の変化と言えば毛足が伸びた程度でしたが、人間の変化は誰の目に見ても明らかでした。
けれどずっと変わらなかったのは、花を贈った時に人間が発するあの言葉と笑顔。人間はいつも、初めて花を貰った時と同じように新鮮な喜びをたたえて怪物を見て、声をかけてくれました。怪物はその度にくすぐったいような、あたたかいような優しい気持ちになるのです。それがしあわせでした。
それは怪物にとって何気ない、あっという間に過ぎ去るような、今まで重ねてきたのとそう変わらない時間。
けれどある日を境に人間の訪問はぴたりと止んでしまいました。
待てど暮らせど、人間は怪物の元にやっては来ません。新しく咲いた花も人間に贈る前にしおれていきます。
怪物は慣れたはずのひとりぼっちに初めてさびしさを感じました。
また会いたい。
心にぽっかりと穴が空いた怪物は、きれいな花をかきあつめ、大きくて重いからだを引きずって人間を探しに行くことにしました。
暗い森を出て、懐かしくてやさしいあの気配と匂いを追って進みます。道中に残っていた気配は本当にうすく、今にも風に吹かれて消えてしまいそうなものでしたが、怪物はそれを一生懸命に追いました。
辿り着いたのは一軒の小屋でした。
窓から覗き込んでようやく見つけた人間は、ベッドの上でしずかに横になっていました。
怪物は再び会えた嬉しさに飛び上がりそうな勢いで窓を叩きます。こんなにたくさんきれいな花を持ってきたんだと、またあの言葉を、温もりを分け与えてほしいと文字にならない声を上げます。
その音にゆっくりと目を覚ました人間は、怪物の姿をとらえると、驚いたような、泣きそうな、けれど嬉しそうな顔で笑いました。そうして手招きをし、怪物を小屋の中に招き入れるのです。
人間は自分の先がもう長くはないことを知っていました。人間は病気に蝕まれたからだで、ずいぶんとしわの増えた、骨ばった手でかたわらに佇む怪物の手を取りました。
「きちんとお別れが言えないままになるところだった」
「こんなところまで来てくれて、会えなかった分の花もこんなに持ってきてくれて」
「本当にありがとう。あなたは私にとって一番の友だちだった」
「だいすきだよ」
怪物は人間のか細い声を聞き逃さないようにずっと耳をそばだてていました。いつも花を贈った時に人間がくれるあの言葉もきちんと聞こえたはずなのに、どうしてか今回は怪物の心がいつも通りあたたまることはありませんでした。
手から伝わる人間の温度は前よりずっとひくくて、それを伝えてくれる力もずっとよわくて。
相変わらず言葉はわからないままなのに、怪物は本能的にお別れを悟ってしまうのです。
怪物はたくさんの目でじっと人間の顔をのぞき込み、その大きな手で、花を摘む時と同じようにそっと、慎重に、だいじな友だちの小さな手を握りなおしました。
微笑みながら閉じるまぶたが、その奥のひとみが名残惜しくて、ひとりに戻るのがどうしようもなく悲しくて、ふたりで過ごした時間がよぎっては心がつんとなるほど愛しく思いました。
いつまでそうしていたのでしょう。
黒くて大きな怪物は、目を閉じるだいすきな友だちにとっておきの花束とやっと覚えたあの言葉をかけるのでした。
【「ありがとう」 そんな言葉を伝えたかった】
嫌いだった。
君の手が、君の顔が、君の声が、君の目線が。
君の、何もかもが嫌いだった。
こっちを見て柔らかく微笑むのも、いつもその透き通った目を合わせて話してくるのも、弾むような、いやに心地のいい声で私の名前を呼ぶのも、しっとりとしたささくれ一つない指先で私の手をとるのも。
君の全部が私の心のやわらかい部分にひどく鋭い痛みとなって刺さるのだ。貶すところひとつないような君を見る度に、自分の中にある醜さに気付かされるのだ。
きっと君だって私がどうしようもないやつだと気付いているだろうに。なのにどうしてそんな目を向けるのだ。君のせいでおかしな勘違いをしてしまいそうになるじゃないか。全てが許されて、肯定されているような気になるじゃないか。
君といると知らないうちに泣きそうになるから。
君といるとどうしても叶わない欲が出てしまうから。
これ以上自分が醜さを露呈させる前に、どうか、どうか優しい君を嫌いだと思わせてくれ。
【優しくしないで】