「ただいまぁ。おーい、いるかぁい?」
玄関を開け、間延びした声で呼ぶ。
同居人の返事は無く、だが気配はするのでさして深く考えず奥へ進んだ。
「·····なんだ、いるじゃねえか。返事くらいしろよ」
同居人は開け放した窓の前で胡座をかき、いつものように厳しい顔をしている。隣にいるだけで熱気が伝わってきそうな暑苦しさに小さく肩を竦め、持っていた買い物袋からペットボトルを取り出して傍らに置く。
「ちったぁ肩の力抜きなぁ」
「·····」
返事は無い。
生真面目さが彼の長所であることは事実だが、こうも四六時中だとこちらの息がつまる。互いの過去を思えば仕方ないことなのかもしれないが、せめて自分といる時くらいは楽になって欲しい。
「もどかしいけどよぉ、俺らまだなんも出来ねえ小童だからねぇ。焦らず行こうや」
「一分一秒が惜しい」
ようやく口を開いたと思ったらコレだ。
呆れたようにもう一度肩を竦め、ベッドに腰掛ける。
「·····」
窓から入り込む風が心地よい。
ベッドに両手をついてしばらくぼんやりしていると、ようやく同居人がペットボトルを開ける音がした。
規則正しい共同生活なんて、自分には一生縁の無いものだと思っていた。
だが、必要最低限の事しか話さないこの男との生活は、意外にもスムーズで心地が良かった。そして、口数少ないこの男が時折語る言葉のまっすぐさと熱が、いいなと思った。
自分には無いものに、きっと人は憧れるのだろう。
同居人はペットボトルの炭酸を勢いよく流し込んでいく。透明な泡がいくつも湧いて、太い喉を通っていく。それを横目で見ながら自分も買い物袋を漁ってジュースを取り出した。
「うぇ、まっじぃ~~」
すっかりぬるくなってしまった炭酸は、めちゃくちゃまずかった。
END
「ぬるい炭酸と無口な君」
海には天使と悪魔が住むという。
寄せては返す波に足を濡らさないよう、気をつけながら彼と歩いた。
私達は海に嫌われている。
愛されている者達は航海でも漁でも安全と幸福を保証されているという。
私達はそのどちらも許されない。
海に落ちればたちまち波に飲まれ、翻弄され、この身は沈んでしまうだろう。
漁に出ても私達が手に入れるのは、徒労だけだ。
それでも海に惹かれるのは、潮騒と、波の煌めきと·····その深さに包まれたいからかもしれない。
繋いでいた手をほどいて、彼は数メートル先にある枯れ枝を拾い上げる。
座り込んで砂浜に何か書き始めた彼に、足を早めずに近付いた。·····足を早めたら彼に期待をさせてしまう。
私と彼の関係は、一言では説明しにくい。
先輩と後輩。
同僚。
悪友。
そして·····
「これが俺の本当の気持ち」
しゃがんだ彼の背後から、砂浜に書かれた文字を見下ろす。
『大好き。 愛してる。 ずっとそばにいて。』
何度も言われてきた言葉だ。
だが彼に、言葉を返したことは無い。
「なぁ!」
しゃがんだまま振り返った彼の目は、真剣そのもので――。もうはぐらかすのは無しだと訴えている。
「俺達ってさぁ·····っ、あ!あー!」
何なワケ?
恐らくこう続いたであろう言葉の代わりに、焦ったような声が上がる。
少し大きな波が打ち寄せて、彼が書いた文字を全て消してしまったのだ。
「·····返事はまた今度」
私は言いながらガクリと肩を落とす彼の頭をそっと撫でて、ゆっくりと歩き出す。
ちぇっ。
彼がわざとらしい舌打ちと共に立ち上がるのが分かった。
さっきより寄せ来る波が大きくなった気がする。
「·····」
私達は海に嫌われている。
END
「波にさらわれた手紙」
一人で海に行くのが好きだと言った。
誰もいない朝に聴く潮騒。
日中にはしゃぐ子供連れや恋人達。
凪いだ水面に降り注ぐ月光。
そんな景色を一人で眺めるのが好きなんだと、立ち止まり振り返ったその顔。
泣いているようにも、笑っているようにも見えたその儚さを、今も忘れられないでいる。
水辺が苦手な私はいつも、波打ち際を歩く彼を帰ってくるまで車の中から見つめている。少し離れた先では、手を繋いで歩く老夫婦の姿があった。
「·····」
いつかあんな風になれるのだろうか。
そんな事を考えながら彼へと視軸を移すと、ちょうどこちらに戻ってくるところだった。
「帰ろう」
「いいのか?」
「うん。もういい」
素っ気ない返事。
私は彼の心をまだ掴みきれないでいる――。
◆◆◆
誰もいない夜の海は、闇がどこまでも広がっているように見える。
私は手にした花束から花を一本引き抜くと、花びらをちぎって海にばらまいた。
ばらばらに散らばり、波にさらわれ、飲まれていく小さな欠片。もうどこにも無い·····。
引き止めれば良かったのか。
ついていけば良かったのか。
後悔はずっと胸に燻り続けて、八月の太陽のようにジリジリと私を炙る。
答えはまだ見つからない。
私はその答えが見つかるまで、彼が消えたこの海を毎年こうして訪れるのだろう。
そしてまた、八月がやってくる。
END
「8月、君に会いたい」
初めは小さな小さな点だった。
星なんて見えない曇天のなか、見間違いかと思えるほどの小さな光。
灯台の灯りか船の照明か、どちらかだろうと思っていたけれど、そうではなかった。
暗い海の闇を斬り裂いて進む一筋の閃光。
もの凄いスピードで進むその光は、暗黒の海を照らし雲を、闇を貫いていく。
小さな点だった光はいま、巨大な剣先となって僕に向かってくる。眩しくて目を開けていられない。
――駄目だ。
目を閉じるその瞬間、光は僕と目が合うと·····
笑った。
END
「眩しくて」
他人の鼓動なんて、触れでもしなけりゃ分からない。
そしてそんな関係性は、全ての人が築けるわけではないもので、だからこそ幼い頃から隣にいることが当たり前になっている彼の鼓動は、他のどんなものよりも手放したくないものだった。
「君はいつも熱いねえ」
首筋に手を添えて、脈動を感じる。
彼は常に自分より体温が高い。
トク、トク、トク。
触れた指先で一定のリズムを刻む鼓動。
トク、と鳴るたび、自身の指先も熱くなっている気がする。
腕を組んだまま眠る姿に、愛しさが込み上げる。
普段の険しい顔つきが幾分和らいだその表情に、思わず手を伸ばしたのは数分前。
働きすぎの感のある彼が、ほんの僅かな時間でも安らぎを得ているのなら良いけれど――。
トク、トク、トク。
彼の鼓動が伝わるたび、再認識する。
「君が隣で生きてるから、生きていけるんだ」
END
「熱い鼓動」