あなたとわたし、世界にたった二人だけ。
フィクションの世界ならこんなに美しいものは無いだろう。関係性としても、物語の完成度としても。
ハッピーエンドでもバッドエンドでも、一つの物語としてその世界が成り立っているなら、こんなに簡潔で美しいものはない。
支離滅裂な、なかば破綻した世界だって、フィクションなら許される。
◆◆◆
昔はきちんと整理整頓されていた。
食器はここ、掃除道具はここ、服はここ。
今はベッドのあちこちに服が散乱し、食べかけのパンがTVの裏から出てくるなんて毎日だ。
机に置いてあるメモは何が書いてあるのかさっぱり分からない。
――昔は毎年自筆の年賀状を出していたのに。
「うー」
これが愛しい恋人の甘えた声なら、どんなに良かったか。
「はいはい」
これがため息と共に出る言葉じゃなかったら、どんなに良かったか。
老いた父の体の向きを変えながら、ベッドの引っかかった汚れた洗濯物に手を伸ばす。
父の介護をするために仕事を辞めて、何年経っただろう。買い物には行くが必要最低限の会話しかしない。友人は私が仕事を辞めた途端疎遠になってしまった。
私もお金が無いから会うのをやめたし。
ここ数年、父と、スーパーの店員さんと、父を担当するケアマネージャーさんと、その三人としか話をしていない。そもそもこれは、会話と言えるのか。
深夜にようやく横になる。
また「うー」と聞こえるが、これは無視する。
私も寝たいんだ。
目を閉じると、父の「うー」と、冷蔵庫の唸りと、眠れない私が身じろぐ音。これしか聞こえなくなって、世界に私と父しかいないような気になってくる。
嫌だ、嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
もう、限界だ。
ふと目を開けると、本棚に並ぶ恋愛小説に酷く腹が立って――。
私は叫び出したい衝動を必死で抑えてまた布団を頭から被り直した。
父はようやく規則正しい寝息を立て始めている。
いっそ、このまま··········。
END
「二人ぼっち」
布団から出ようとして、動きを止めた。
変な違和感があったからだ。
朝になって、陽射しを感じて、温かくなった。
何も不自然なところは無い。いつもの朝だ。
だというのに。
「――?」
コポコポ、ゴウンゴウン。
耳の奥で何かの音がする。更に。
「――?」
視界が一瞬、水に満たされたみたいになる。
「あー·····」
どうやらまだ夢うつつらしい。
寝る前に読んだ本の影響だろうか。SFちっくな夢なんて、滅多に見ないのに。
――いや、違う。
耳に手を当てようとして、手が無い事に気付いた。
「あれ?」
体が動かない。いや、そもそも――。
私のカラダって、ナンダッケ――?
◆◆◆
コポコポ、ゴウンゴウン。
春の陽射しが差し込む研究所。水槽の中で細いケーブルに繋がれた脳が微かに揺れた。
END
「夢が醒める前に」
映画館の照明が落ちた時。
駅のホームに立った時。
くじをめくって広げた時。
ガチャガチャを開ける時。
好きな作家の最新作の最初の一ページ。
ほんの一瞬でも、徐々に込み上げてくるものでも、胸が高鳴る瞬間って、意外にたくさんあるものだ。
END
「胸が高鳴る」
不条理なのはフィクションの世界だけであって欲しいなぁ。
そう思うのに現実は残酷で。
身近な人間関係も、世界の在り方も。
「なんでこんな事が起こるの?」って事ばかり。
この不条理な世界で生きるのに、必要なのはなんだろう?
鈍感さ? 諦め? スルースキル?
そればっかりに傾くのもなんだか寂しい。
END
「不条理」
産まれた時にあんなに泣くのは、辛いことばかりのこの世に出てきてしまった事が悲しいからだ。
そう言ったのは誰だったか。
今、目の前にソイツがいたら渾身の力を込めてぶん殴ってやるのに。
一言も発することなく消えてしまった、小さな命。
白く冷たくなった我が子に呆然とする妻。
開かれることの無かった瞳は、薄い瞼の奥で何を見つめていたのだろう。
「泣かないよ?」
妻がポツリと呟く。
「·····泣かないね」
私もポツリとそう答えて、妻の体を抱き締める。
「やっと会えたのに」
妻の声は震えていた。
「·····そうだね」
私はそれだけ言うのが精一杯で。
「うぅ·····、っあ、あぁぁ――」
妻の泣き声が狭い病室に響く。
妻の腕の中、真新しいおくるみの白が目に痛い。
私は妻と、妻の腕の中の小さな命をまるごと抱き締めて、妻と一緒にこれが生涯最後とばかりに泣きじゃくった。
END
「泣かないよ」