微かに聞こえたその音が、誰かの声だと気付くのに少し時間がかかった。
最初は一瞬で、彼はそれを空耳かと思ったほどだった。
再びそれが聞こえてきた時、彼は歩みを止めて空を仰いだ。梢を揺らすか揺らさないかの、穏やかで静かな風が渡っている。自分の銀髪が一筋、目の端で流れているのに気付いて彼はその風を知った。
空は薄い水色で、小さな綿菓子のような雲が一つ、群れからはぐれた生き物のように漂っている。
何とはなしにその雲を眺めていた彼の耳に、またあの音が聞こえてきた。
自然と足が早まる。
やがて見えてきた古城から、音は次第に連なりとなって耳に届く。それは歌だった。
最初にその音を耳にした場所は、もう遥か遠くになっている。風が運んでくれたのだろうか。そんな馬鹿な、と思いながらも彼は微かに高揚する胸を抑えて更に足を進めた。
「·····」
せり出した窓に寄りかかるようにして、一人の男が歌を歌っていた。穏やかで低い男の声は、風に乗って舞いながら旋律となって彼の耳に心地よく響く。
その絵のような美しさに、彼はしばらく無言で男の姿を見つめ続けている。
不意に歌が途切れた。
彼に気付いた男が歌をやめ、窓辺から僅かに身を乗り出して見下ろしていた。
「久しぶり」
柔らかな声。
「あなたの城だったのですね」
答えると、男はふふ、と小さく微笑んだ。
「うん。ここは、私の故郷によく似ていて、気に入ってるんだ」
「お邪魔しても?」
「もちろん。歓迎するよ。そちらから回ってくれ。すぐに行くから」
長い指が右手を指差したかと思うと、すぐに姿が見えなくなった。
――歌の続きが聴けるだろうか?
そんな事を思いながら、彼は城の門を開けた。
END
「風のいたずら」
推しが死んだその日、私達は授業も何も手につかなくて、この世の終わりかというくらい憔悴していた。
同じ学校の見知らぬ誰かが事故だかなんだか死んだと全校集会で聞かされた時より遥かに大きいその衝撃は、いつもくだらない事でバカ笑いする私達を無口にさせた。
授業中もスマホで推しの死に関する情報を集めることがやめられず、先生に見つかってしこたま怒られた。
生徒指導室を同時に出て、顔を見合わせる。
「·····」
二人ともマスカラが溶け落ちて、涙が黒くなっていた。
先生に説明(という名の言い訳)をしていて自然と流れたものだろう。抑えられない気持ちの証拠に、流れた黒い筋がほとんど漫画みたいになっていた。
「·····ぷっ」
二人同時に噴き出して、そこから堰を切ったように笑い始めた。ひとしきり笑ったら教室に戻るのが何だかバカらしくなって、二人してサボった。
カラオケに飛び込んだ私達はそれから六時間、ぶっ通しで推しの歌を歌いまくった。
片手で数えられるほどしかない推しの楽曲は、どれも私達にとっては神曲だった。
部屋に据え付けられた鏡に、泣きながら歌う私達二人の顔が映っている。
学校を抜け出す直前、せっかく直した化粧がまた崩れて、二人して黒い涙を流している。
それは今まで流してきた透明な涙と同じか、それ以上に美しいものとして私の目に映った。
END
「透明な涙」
何が好き?
チョコレート、ピザ、ラーメン?
食べ物じゃなくてもいいよ。
読書、スポーツ観戦、ロックバンド、観劇。
色々あるよね。
どこで買ってる?
スーパー、ネット通販、まぁそんなところだよね。
じゃあさ、例えばそのチョコレート。あなたのもとへ届くまでにどれだけの人の手を経て、どれだけの距離を旅して、どれだけの工程を終えてチョコレートになってるか知ってる?
分かんないよね。
私も分かんない。てか、分かんなかった。で、調べてみたら気の遠くなるような長い距離と、いくつもの工程と、それに関わる人達がいた。
すごいよね。
一人で生きてるなんて、嘯いてる人っているけど、誰とも関わらずに生きられる人なんて、いないんだよ。
私が今チョコレートを食べられるのも、おせんべいを買えるのも、本を読めるのも、遠くにいる見ず知らずの誰かのお陰なんだよね。
すごいなぁ。
END
「あなたのもとへ」
いつもいつも、突然だった。
腕を引く、髪を掴む、名を叫ぶ。
力任せの腕と鋭い言葉。
与えられたのはそれだけだった。
ごく稀に与えられた賞賛は、およそ子供に向けるものとは思えない、欲得ずくのものだった。
もっともそれに気付いたのも、ずっと後のことだったが。
触れるか触れないかの微かな動き。
指が重なったのだと分かるのに数瞬かかった。
「もう少し、触れてもいいかな?」
許可を問われることなど初めてだった。
その初めての感覚は、私の胸に不思議なあたたかさをもたらした。
END
「そっと」
この歳になってまだ海外に行ったことがない。
『世界 ふ〇ぎ発見』や『クレイジー〇ャー二ー』、『世界はほ〇いモノにあふれてる』といった番組が大好きな割に、海を越えたことがない。
マチュピチュ、イースター島、ノイシュバンシュタイン城、ピラミッド。
ナイアガラの滝、ウユニ塩湖、南極大陸。
ヴェルサイユ宮殿、ドゴン族の祭、リオのカーニバル·····。
旅行ガイドや紀行モノのエッセイ、写真集を読み漁りながら、「実際に行ったらこんな絶景見れないんだろうな。観光客多いだろうし」などと皮肉ぶってみるけれど。本当は、踏み出す勇気も、お金を貯める根気も無いだけだ。
現地に行って自分の目で見てみたら、きっとまるで違う感覚になるのだろう。
音や匂い、手触り。そういったものから伝わる感触は、きっと本や映像で触れる以上の何かを伝えてくれる。分かっているのだ。そんな事は。
写真で見たあの街の、あの遺跡の、あの草原の。
写真では絶対に分からない生の感覚。
いつかそれらを感じられる日が来るのだろうか。
それこそ、まだ見ぬ景色だ。
END
「まだ見ぬ景色」