「手放すのに勇気がいるものって何かある?」
「お前」
「·····」
「もうお前のいない生活は想像つかん」
「·····そう」
――でももし、離れた方がお前が幸せになるというなら、その為に最後の勇気を絞り出さなければいけないとは思っている。
END
「手放す勇気」
布団に入ってスマホを開く。
毎日の終わりに二つのSNSと三つの文章投稿サイトを巡回するのがルーティーン。
通知欄に赤い丸がついていると、それだけでちょっと気分がアガる。リアクションの件数が数字で分かるサイトだと、カウンターが回る度に「いいぞいいぞ」
って気分になる。
日付はとっくに変わっていて、深夜帯と言われる時間。真っ暗な部屋でブルーライトを浴びながら、ネットの向こうで「いいね」を押してくれた人に感謝の言葉をそっと呟く。
どれだけ仕事がしんどくても、どれだけ政治にムカついても、どれだけ犯罪や事件に胸糞悪さを感じても、ここに来たらリカバリー出来る気がする。
リアルに会っている人の九割は知らない、私の居場所。
私にも灯すことの出来る光があるのだと、気付かせてくれる場所。
それは無くしたくないもう一つの居場所。
END
「光輝け、暗闇で」
ドラえもんのひみつ道具で『ありがたみわかり機』っていうのがあった。
ありがたみを知りたいものの名前を言いながらスイッチを押すと、周りからそのものが消えてしまうというひみつ道具。
のび太が「空気」と言ってスイッチを押すと一瞬で空気が無くなって、のび太は悶絶していた(すぐ元に戻ったけど)。
当たり前にあるもの、当たり前にある習慣や仕組み、酸素もそのうちの一つなんだと思う。
酸素の無い宇宙空間に行くには、あんなに沢山の装置や設備が必要になるくらいなのだ。
私達が普段当たり前にあるものとして見たり聞いたり、使ったりしているものは、無くなったら生きていくのが困難になるものもたくさんたくさんあるんだろう。
最近ネットをぼんやり見ていると、強い言葉で何かを否定する人がいて、『ありがたみわかり機』を使ってみればいいのに、と思うことがある。
酸素、で思いついたのがコレだった。
END
「酸素」
生まれてから今までの全ての記憶。
その全てを覚えているわけじゃない。
最初の記憶は何なのか。
思い出そうとして思い出せるものなのか。
深くて広い記憶の海は、普段は静かで過ぎていく日々をただ蓄積するだけで。
でも、たまに·····深海魚が打ち上げられるかのように、唐突に過去の記憶が浮上することがある。
浮上してきた記憶は大半が楽しくないもので、そしてその記憶が間違いなんかじゃないのは確実で、私は自分の心が深く沈んでいくのを感じる。
真冬の海ように荒れて、すさんで、暴れる記憶は、いつか暖かな記憶に塗り潰されるのだろうか。
記憶の海は深く、広く、時に私を激しく翻弄する。
沈んだり、浮き上がったり、記憶に翻弄される心はその感情を抱えた新たな記憶を抱いて、やがて忘却していくのだろう。
私が死ぬその時は、楽しかった記憶を思い出しながら、凪の海のような心で逝きたい。
END
「記憶の海」
お気に入りのボールペン、ティーカップ、カーディガン、ブーツ。
いつもの場所に、いつものように。
いつでも使えるようにそこにある。
ボールペンは書きやすくて好きだと言っていた。
ティーカップは青い花の模様が綺麗だと。
カーディガンは好きなブランドの好きな色で、ブーツは黒いレザーが艶やかなところが好きだと言っていた。
「·····」
全部おぼえている。
この部屋で君がどんな風に過ごしたか。
白いシーツと水色のカーテンが、昇る朝日に輝いている。
朝一番に窓を開けて、太陽が顔を出していると君は途端に上機嫌になった。
雨が降ると少し気力が無くなって、気だるげになるのがセクシーだと思った。
「·····」
全部おぼえている。
マッシュポテトが好きで、紅茶が好きで、トーストが好きで。
晴れた朝が好きで、雨の夜は苦手で、家族の話をするのが好きで。
君がどんな風に生きたか、すぐに思い出せる。
今にも君がドアを開けて、机の上のボールペンと椅子に掛けてあるカーディガンを持って仕事に出かける姿を。私はまだパジャマで、そんな君を「いってらっしゃい」と言って送り出す。
いつもと同じ朝。
いつもと同じ部屋。
いつもと同じ私。
ただ君だけがいない。
君のいない生活が、これから何年続くのだろう。
私はそれに、何年耐えられるのだろう。
――あまり自信が無い。
END
「ただ君だけ」