あの日君に渡し損ねた手紙は、今も引き出しの奥にしまってある。
とっくの昔に無くしてしまったと思っていたが、私はどうやらあの時からずっと捨てられず、懐に忍ばせていたらしい。
しわくちゃで、字も掠れて、読むのにだいぶ苦労するその手紙を、私は与えられた部屋の引き出しにしまっておくことにしたのだ。
君に渡すことはもう出来ない。
後悔と、自己保身と、謝罪と·····、確かにあった君への愛。
今さらそれを伝えたところで、何になると言うのか。
割れた卵は元には戻らない。
壊れてしまったものは修復することが出来たとしても、その傷を無かったことには出来ないのだ。
あの日、私が君につけた大きな傷痕は、隠すことは出来ても無くなりはしないだろう。
それでも昔のように笑いかけてくれた君に、私は何を返したらいいのか。
これは私に与えられた試練であり、チャンスなのだ。
君にあの手紙を渡すことはもう出来ない。
引き出しの奥に隠したあの手紙の代わりに、私自身の在り方で応えようと思うんだ。
·····なんて言ったら、君はまた怒るのだろうな。
END
「隠された手紙」
「バイバイ」
そう言って彼女は〝文字通り〟僕の前から姿を消した。
あまりに一瞬のことで、僕には何も出来なかった。
「え」
と言って、足を一歩前に出して、そこで止まった。
彼女の長い黒髪が、未練のように僕の視界に残っている。彼女のではなく、僕の未練。
SNSで知り合って、ここ数年は彼女だけが僕の話し相手だった。家族ともクラスメイトともうまく付き合えない僕に、私も同じだと言った彼女。
地獄のような毎日を、うんざりだと言った彼女。
数年そんなやり取りをして、初めてリアルで会おうという話になって、待ち合わせをした。
黒髪が綺麗な、びっくりするような美少女が、僕のユーザー名を呼んだ。
SNSの延長のようなやり取りをして、とあるビルの屋上で夜景が見たいと言った彼女。
手すりから身を乗り出して、僕を振り返って、たった一言。
「バイバイ」
あの瞬間の、彼女の笑顔が忘れられない。
その後はまるで夢の中にいるようで、真っ赤に染まった地面を見てる間も、警察に事情を聞かれている間も、ふわふわとした感覚にとらわれたままだった。
地獄のような毎日を、彼女は自ら終わらせた。
あの笑顔の意味を、僕はそうとらえている。
僕はその終わりを見届ける役を与えられたのだ。
「バイバイ」
彼女の声が、僕の耳の奥にまだ残っている。
END
「バイバイ」
「何度も思い出しました」
彼はそう言いながら、一つ一つ旅装を解いていく。
大きな荷を床に置き、ローブを椅子に掛け、靴紐をほどく。
彼が動くたび、砂埃が舞って光に反射する。
キラキラと、汚い筈の砂埃が綺麗に見えるその瞬間が、私にはとても尊い時間のように思えた。
「大切な人達のことを、何度も」
髪を留めていたリボンをほどくと、長い髪がふわりと広がる。彼の白い髪が陽に透けて、まるで薄いレースのようだ。
「苦しくて、何度も諦めようと思いました」
彼の旅が長く、途方もなく長かったことを知っている私は、その言葉に応える術を持たない。
「何もかもを投げ出して、もう全部報われなくてもいいと、とにかくこの足を止めて休みたいと、何度も思いました」
だが彼は、止まらなかった。
「そのたびに、思い出したんです」
「大切な人達の、声を」
「大切な人達の、笑顔を」
長く苦しい旅を終えた彼は、だが達成感のようなものはなく、ただ旅を通して得た万感の思い浸っているようだった。
「夜は長いよ」
私は短くそう言って、彼の前にコーヒーを置く。
「長かった君の旅を、聞くには丁度いい長さだろう」
彼はそこでよくやく笑ってこう言った。
「気が利きませんね。私が紅茶党だともう忘れてしまいましたか?」
緑の瞳が悪戯っぽく輝いている。
END
「旅の途中」
僕のまだ知らない君を、いつか知る日が来るのかしら?
それは嬉しいことなのかしら?
それとも悲しいことなのかしら?
僕のまだ知らない心を、たくさん持っている君。
僕のまだ知らない歌を、たくさん知っている君。
僕のほんとうの気持ちを、小さく笑って受け流す君。
もし君に拒絶されたら、僕は僕のまだ知らない心を、知ることになるのかしら?
僕はほんの子供だけれど、君を好きな気持ちはほんとうで、どうしたらほんとうだと伝わるのか、ずっとずっと分からないでいるけれど。
僕はこの伝え方しか知らなくて、君がそれで困っていることは知っていて。
いつかこの気持ちが届くと信じて、ずっと好きだよと言い続けて。
ねえ、僕のまだ知らない君。
いつか出会えたら、きっと笑っていてね。
END
「まだ知らない君」
夏になると恋しくなるし、冬になると避けたくなる。
季節が理由なのもあるけれど、それだけではない気もする。
夏のバカンス、フェス、花火大会といった浮かれた空気に、ほんの少し気後れする瞬間があって、そんな時に逃げるように日陰に飛び込むのだ。
逆に冬になると肩を竦めて早足で歩く人や、雪が降る直前のどんよりと重い雲に気が滅入って、更に薄暗い日陰から逃れるように遠のいてしまう。
ずいぶんと身勝手だと思うけれど、黙って受け入れてくれる場所の一つくらい、あってもいいはずだ。
END
「日陰」