クローゼットを開けると不意に何かが降ってきた。
床に落ちたそれを拾いあげ、軽くほこりを払う。
それは同居人が夏の間使っていた麦わら帽子だった。
「·····」
猫の額ほどの庭だが、同居人はそこでの時間を割と気に入っているようだった。
伸びてきたひまわりに水を撒く横顔。
しゃがんで草むしりをする後ろ姿。
蝉の死体を見つけた時の、小さな声。
季節が変わっても小さな庭には何かしら花が咲いていて、彩りを添えていた。仕事の合間に時々庭いじりをするのが彼の気晴らしになっているらしい。
私はといえば、自分では直接何かを育てることはせずもっぱら彼の手伝いをするだけだ。
最初に植えたチューリップが咲いた時の、彼の微笑が忘れられない。
その時私の心に初めて浮かんだ、あたたかくやわらかなものの感覚も·····。
窓へ向かう。
冬の庭には小さな薄赤い花が咲いている。
彼に名前を聞いたが忘れてしまった。細いリボンのような花びらが冬の風に揺れている。
休みの日にはまた手入れをする彼の姿が見られるだろう。
「ただいま」
続く名を呼ぶ声に、振り返る。
真冬に部屋の中で麦わら帽子をかぶる私に、同居人は目を丸くして·····次の瞬間弾けたように笑った。
END
「帽子かぶって」
大丈夫ですか? たった一言そう聞けたなら。
最悪の事態を避けられたかもしれない。
何か苦しんでいらっしゃいますか?
そうやって視線を合わせることが出来たなら。
荷を分け合うことが出来たかもしれない。
私に出来ることはありますか?
そう言って手を伸ばすことが出来たなら。
たとえ話を聞くことだけしか出来なかったとしても、ひと時の安らぎを与えることが出来たかもしれない。
そうやって小さな勇気を少しずつ出していれば·····
みんながそれに気付いたのは、全て終わった後でした。
END
「小さな勇気」
「わぁ!」
恋人同士や親子で悪戯をしているような、なんだか微笑ましいやりとりが連想される。
「わぁ·····」
何かにドン引きしているか、何かに感動しているか、どちらかに見える。
「ワァ!」
本当は驚いていないのに、わざとらしく驚いているフリをしている気がする。
これに更にクエスチョンやエクスクラメーションがつくとまた印象が変わるし、小さい「つ」がつくとまた別のシチュエーションが浮かぶ。
表音文字の選び方で会話の印象が大きく変わるのは、日本語だけなのかな?
日本語で話を書きながら時々考える。
END
「わぁ!」
あの男は終わりを見届けることは出来るが自分では終わらせられないんだ。
あらゆる者が自分の望む物語の結末を求めて、あの男に自分の理想を押し付ける。
ある者は理想の恋人を。
ある者は理想の騎士を。
ある者は最高の友を。
そしてある者は憎むべき怨敵を。
そうやって自分の望む結末が得られるまで、世界はあの男を振り回す。
終わらないんじゃない。終わらせられないんだ。
自分の意思で動いているように見えるが、その実なにかに動かされているだけなんじゃないかと、思うことがある。
自身に生まれた恋心さえ·····。
「ずいぶん同情的だねえ」
鏡のように静まり返った湖を見ながら、男が呟く。
黒髪の男はそれには答えず、つまらなさそうに湖を見つめたまま、微動だにしない。
「その、物語を終わらせられない彼が選んだ結末が〝コレ〟とはね」
最後に会ったのはいつだったか。
声に覇気は無く、それでもこの結末を選ぶような諦観は感じられなかった。
それすらもこちらが都合よく思い込んでいただけだろうか。
「お前は知っていたんじゃないか?」
「さあ·····どうだろうね」
「どうせまたすぐに会うことになる」
「さて、〝次〟はどんな風に出会うのかな」
「いい加減終わらせたいのは私も同じなんだがな」
「そう簡単には終わらないよ。〝彼女〟は永遠が好きだから」
「·····忌々しい」
湖は何も応えず、ただ静かに凪いだままだった。
END
「終わらない物語」
真夜中。彼はふらりと起きてきて、「帰らなければ」と呟いた。
窓の外には大きな月。
夜の風が滑るように入り込み、窓辺に佇む彼とその背中を見つめる私の体を冷やしていく。
赤赤と燃える暖炉の火が途端に現実味を無くし、部屋の中にいるというのに寒々とした感覚に襲われる。
「今夜はもう遅いから、明日送りますよ」
そう言うと、開いた窓に手をかけたまま、彼は首だけをゆっくり巡らせる。
その瞳はどこか虚ろで、昼とはまるで違うその表情に、私は微かな戦慄を覚える。
「そうだね·····じゃあ、お言葉に甘えようかな」
静かな声は入り込んできた冷たい風にかき混ぜられて、いつもより不鮮明に聞こえる。
「冷えてきましたね。さぁ、窓を閉めて。もう寝ましょう」
彼はうん、と頷くと、素直に窓を閉めて寝室へと向かう。――私の横を素通りして。
「おやすみなさい」
「·····おやすみ」
彼の背中を見送って、私は窓へと視線を向けた。
ガラス越しに月が照る。窓を閉めたせいか、もう冷たさは感じない。
紅茶はすっかり冷めてしまったが、淹れ直す気にはなれずぬるいままのそれを飲み干す。
帰るべき彼の故郷はもう既に無い。
美しかった湖は埋め立てられ、屋敷は壊され、花園は焼き払われた。守るべき家族も、領民も、今はもう死んだか散り散りになっている。
その光景を、彼はその目で見た筈だった。
忘れてしまったのか、認めたくないのか。
彼は時折真夜中になると起きてきて、故郷に帰ろうとする。今夜のように。
その度に私は彼に嘘をつき、宥めて眠るよう促す。
罪滅ぼしのつもりなのか、自分の心を直視したくないのか。
私が彼の故郷を奪った張本人だと、彼自身も分かっている筈なのに。
彼の深夜の彷徨が、演技でないと何故言い切れるのか。
やさしい嘘で慰められているのは·····私の方なのかもしれない。
END
「やさしい嘘」