真夜中。彼はふらりと起きてきて、「帰らなければ」と呟いた。
窓の外には大きな月。
夜の風が滑るように入り込み、窓辺に佇む彼とその背中を見つめる私の体を冷やしていく。
赤赤と燃える暖炉の火が途端に現実味を無くし、部屋の中にいるというのに寒々とした感覚に襲われる。
「今夜はもう遅いから、明日送りますよ」
そう言うと、開いた窓に手をかけたまま、彼は首だけをゆっくり巡らせる。
その瞳はどこか虚ろで、昼とはまるで違うその表情に、私は微かな戦慄を覚える。
「そうだね·····じゃあ、お言葉に甘えようかな」
静かな声は入り込んできた冷たい風にかき混ぜられて、いつもより不鮮明に聞こえる。
「冷えてきましたね。さぁ、窓を閉めて。もう寝ましょう」
彼はうん、と頷くと、素直に窓を閉めて寝室へと向かう。――私の横を素通りして。
「おやすみなさい」
「·····おやすみ」
彼の背中を見送って、私は窓へと視線を向けた。
ガラス越しに月が照る。窓を閉めたせいか、もう冷たさは感じない。
紅茶はすっかり冷めてしまったが、淹れ直す気にはなれずぬるいままのそれを飲み干す。
帰るべき彼の故郷はもう既に無い。
美しかった湖は埋め立てられ、屋敷は壊され、花園は焼き払われた。守るべき家族も、領民も、今はもう死んだか散り散りになっている。
その光景を、彼はその目で見た筈だった。
忘れてしまったのか、認めたくないのか。
彼は時折真夜中になると起きてきて、故郷に帰ろうとする。今夜のように。
その度に私は彼に嘘をつき、宥めて眠るよう促す。
罪滅ぼしのつもりなのか、自分の心を直視したくないのか。
私が彼の故郷を奪った張本人だと、彼自身も分かっている筈なのに。
彼の深夜の彷徨が、演技でないと何故言い切れるのか。
やさしい嘘で慰められているのは·····私の方なのかもしれない。
END
「やさしい嘘」
1/24/2025, 3:37:30 PM