その姿を目で追ってしまう。
その声に耳を澄ましてしまう。
意識しなければいいのに。
視界に入れなければいいのに。
相容れないと分かっているのに目が離せない。
いると分かれば探してしまう。
すれ違えば睨んでしまう(見つめてしまう)。
言葉を交わせば煽ってしまう(昂ってしまう)。
相容れない。嫌悪している。
なのにその存在は私の中でどんどんどんどん大きくなって。
決して好きではない、好きにはなれないその男への、剥き出しの感情だけが最早私を生かす燃料だった。
だから、今。
その男を失った私は、どうやって息をすればいいのか、どうやって生きていけばいいのか、進む術を失くして立ち尽くしている。
どうすればこの空白を、埋められるのだろう?
END
「好きじゃないのに」
美味しいものを食べている時、好きなテレビ番組を見ている時、推しの歌を聞いている時、好きな人と並んで歩いている時。――不意にそれは訪れる。
「なんでこんなに世の中は面倒なんだろう」
「なんでこんなに人の視線が気になるんだろう」
頭の中にむくむくと湧き出す黒雲。
それはあっという間に体中を広がって、やがて胸の一隅を占めていく。
そうなるともう駄目だ。
打ち消そうと楽しい事を考えても、黒雲はどんどんどんどん広がって、楽しかった気持ちを塗り潰していく。
季節のせい、体調のせい、何とか理由づけが出来ればまだマシな方で。
そういう外的要因が無いのに黒雲は突然湧いてくる。
叫んでどうにかなるならいい。愚痴ってどうにかなるならいい。
そうならないから困っている。
何にもないのに憂鬱で、充実しているはずなのに空っぽで、不自由はないはずなのに息苦しくて、説明出来ない苦しさに苛まれる。
こういう時を〝魔が差す〟瞬間というのだろう。
「それで殺されたんじゃ被害者は浮かばれませんわ」
嗄れた声で言いながら、年上の部下は腰をあげる。
「まぁねえ。でも、往々にしてある事だから」
差し出された血塗れの財布を受け取る。
「まだ若いのにな。かわいそうに」
「若かろうが歳取ってようが殺されるのはかわいそうな事ですよ」
「·····いやに棘のある言い方だね」
「そうですか」
――あぁ、そうか。
〝魔が差す〟瞬間ってのは、仕事が何であれ訪れるものなんだ。
部下の手に握られた拳銃の、黒くぽっかりと空いた穴を見ながら他人事のようにそんな事を思った。
いつの間にかポツポツと、冷たい雨が降り出していた。
END
「ところにより雨」
人生が変わった、という存在はリアルでは一人。
いわゆる〝推し〟となったその人を、追いかけることが生活の基盤になった。
そうして約二十年。生きる理由があったのは、良かった事だと思う。
もう昔ほどの情熱は無いけれど、それでも推しとなったその人の表現は何でも一通りチェックはしたくなる。
そんな「特別な存在」は、実は三次元でも二次元でも関係無い気がする。
実在しない、フィクションの世界のキャラクターでも私の人生に影響を与えて〝推し〟となった人はいる。
彼が発した言葉、彼の行動、その全てが知りたい。
そんな存在がいることは、幸せな事なのだろう。
END
「特別な存在」
この国の平均寿命の半分近くの人生を消費してきて、それを一言で表すとしたらコレになると思う。
〝バカみたい〟
いわゆる真面目な方だったと思う。
先生にタメ口をきく事もなく、制服のスカートの丈をいじることも、髪を染めることもなく、嫌いな学校行事も我慢して参加した。
卒業時の記憶はほとんどない。
中学の友人は顔も思い出せないし、ただ一人の親友以外、高校の同級生がどうなったかも知らない。
高校での就職活動はことごとく失敗した。
面接では趣味は絵を描くことと話したら「でくのぼうみたいなのか」とバカにされた。
そうして就職は諦めて専門学校に行ったがそこでもうまくいかず、結局非正規でなんとか生きている。
「万引きして親に怒られた」と言っていた二つ年下の近所の男は高校卒業後、無事に正社員になったらしい。「なんだそれ」と思った。
上手く立ち回れる人間、というのはどこにもいる。
そういう話を見聞きするたびに自分の人生を振り返り、「バカみたい」と思う。
それでも自分の性格を、考え方を、生活習慣を変えられないのだから、やっぱり「バカみたい」なんだろう。
END
「バカみたい」
こんなに沢山の人がいるのに、私の事を知っているのは君ただ一人。
こんなに人で溢れているのに、私の目に映るのはお前だけ。
都会の雑踏。すれ違う人の群れはみんなモノクロで、耳に入る音も意味を成さないノイズでしかない。
砂漠に一人でいるのと大して変わらないようなこの街で、ただ一人色彩を、意味のある音を、私にもたらしてくれる人。
灰色の海を一人で漂うようにして街をさまよっていた私に、眩い色彩と意味を成す声をもたらした男。
「会いたかった」
同時に呟いた言葉の奥に、隠された意図はきっと正反対なのだろう。
でも、それでも。
君が。
お前が。
きっと私の生きる意味になる。
END
「二人ぼっち」