美味しいものを食べている時、好きなテレビ番組を見ている時、推しの歌を聞いている時、好きな人と並んで歩いている時。――不意にそれは訪れる。
「なんでこんなに世の中は面倒なんだろう」
「なんでこんなに人の視線が気になるんだろう」
頭の中にむくむくと湧き出す黒雲。
それはあっという間に体中を広がって、やがて胸の一隅を占めていく。
そうなるともう駄目だ。
打ち消そうと楽しい事を考えても、黒雲はどんどんどんどん広がって、楽しかった気持ちを塗り潰していく。
季節のせい、体調のせい、何とか理由づけが出来ればまだマシな方で。
そういう外的要因が無いのに黒雲は突然湧いてくる。
叫んでどうにかなるならいい。愚痴ってどうにかなるならいい。
そうならないから困っている。
何にもないのに憂鬱で、充実しているはずなのに空っぽで、不自由はないはずなのに息苦しくて、説明出来ない苦しさに苛まれる。
こういう時を〝魔が差す〟瞬間というのだろう。
「それで殺されたんじゃ被害者は浮かばれませんわ」
嗄れた声で言いながら、年上の部下は腰をあげる。
「まぁねえ。でも、往々にしてある事だから」
差し出された血塗れの財布を受け取る。
「まだ若いのにな。かわいそうに」
「若かろうが歳取ってようが殺されるのはかわいそうな事ですよ」
「·····いやに棘のある言い方だね」
「そうですか」
――あぁ、そうか。
〝魔が差す〟瞬間ってのは、仕事が何であれ訪れるものなんだ。
部下の手に握られた拳銃の、黒くぽっかりと空いた穴を見ながら他人事のようにそんな事を思った。
いつの間にかポツポツと、冷たい雨が降り出していた。
END
「ところにより雨」
3/24/2024, 12:28:36 PM