ねずみ色の重たげな空を眺めながら、
アネットは今日もまた窓辺に佇む。
朗らかな春の日も、凍てつく冬の日も、
彼女がここで待ち続ける理由はただひとつ――。
遠い戦場にいる恋人からの便りを受け取るためだ。
「お待たせしました。
今日もお手紙が届いていますよ」
扉の向こうに現れたのは、新緑色の制服が
よく似合う、笑顔の郵便配達員オリバーさん。
雨の日も雪の日も、丁寧に傷つけないように、「ご無事でありますように」と手紙を差し出してくれる。
「本当に……いつもありがとうございます」
その夜。
彼女は蝋燭の揺れる明かりの中で
便箋を広げ、静かに言葉を綴った。
『拝啓 木枯らしの季節となりました。
最近は悲しい知らせが続いています。
母さんの体調が思わしくなく、お医者様には
長くないと告げられました。暗い話をするつもりで
はなかったのに、ごめんなさい。
でも、こんな苦しみはきっと些細なもの。戦場で
痛みや飢え、寒さに耐え忍ぶ兵士たちの方が、
ずっと辛いはず。ルカ、はやくあなたに会いたい。
心から愛をこめて アネット』
手紙をしたためていく内に、
彼への想いが膨らみ涙が頬を伝う。
戦時下の街は灰色で、人々の笑顔は消え去り、
希望は薄れて――。
そんな中、彼との手紙だけが、
暗い生活に射し込む一筋の光のようだった。
「お願いします。どうか、彼に届きますように」
――
季節がひとつ巡ったある日。
オリバーは郵便局でいつものように
配達物を仕分けていた。
「ミラーさん宛……ミラーさん宛……」
機械的に手を動かしていた彼は、ふと動きを止める。差出人欄にはルーカス・グレイの名はない。
代わりに記されていたのは――「陸軍第五師団」。
オリバーの心臓が嫌な予感を告げる。
我慢しきれず、彼は局長に尋ねた。
「この手紙……内容を教えていただけませんか」
「規則違反だぞ」
「分かっています。でも……」
局長はオリバーの表情を見て、溜息をついた。
「ルーカス・グレイ伍長は二週間前に戦死した。
最後の手紙も、その封筒に入っている」
世界が音を失った。
(……亡くなった?)
脳裏にアネットの顔が浮かぶ。
窓辺で手紙を抱えて微笑むあの姿が。
もし彼女が真実を知ったなら――。
オリバーは封筒を握り締めたまま、局の裏手へと
足を運んだ。黒い海が唸り声を上げ、
海風が吹き抜け、手の中の封筒が微かに揺れる。
長い沈黙の後、彼はそれをそっと
胸ポケットにしまい込んだ。
その夜、オリバーは自室で封を切った。
『愛するアネットへ
明日、大きな作戦がある。もしかしたら、
これが最後の手紙になるかもしれない。
アネット、君と出会えて本当に良かった。
君と過ごした日々は、僕の人生で一番幸せな
時間だった。もし帰れなくても、どうか泣かないで
ほしい。君には幸せになってほしい。
僕はいつも君のそばにいる。
愛をこめて ルーカス』
――
翌日。
オリバーはアネットの家を訪れた。
「オリバーさん!手紙が来たんですか?」
「ええ」
彼が手紙を手渡すと、
アネットは弾むように封を開く。
『愛するアネットへ
こちらは相変わらずだが、僕は元気にしている。
君からの手紙は何度も読み返しているよ。君が作ったパイの話を読んだら、無性に食べたくなってしまった。あと少しだ。あと少しで君の元に帰れる。その日を楽しみに今日も頑張るよ。愛をこめて ルーカス』
それは、オリバーが書いた嘘の手紙だった。
彼はルーカスの筆跡を研究し、書き方の癖を覚え、
彼女の恋人になりきって手紙を書く。
罪悪感はあった。
けれど、手紙を読んでほころぶアネットを
目にすれば、胸の痛みも次第に薄れていく。
アネットは毎回、丹念に返事を書き、
季節の小さな贈り物を添えた。
春には桜の花びら、夏には朝顔の押し花、
秋には紅葉、冬には松ぼっくり。
便箋にはリスや小鳥の可愛いらしい絵が描かれて
おり、思わず笑みが零れてしまう。
オリバーはそっと目を閉じ、便箋の匂いを胸に吸い込んだ。いつも彼女と出会う時にふわりと薫る柔らかな匂い。香水か。それとも彼女特有のものだろうか。
――
「お手紙が来たんですね!」
玄関先でアネットが春の陽射しのように笑う。
オリバーは頷き、彼女の掌に手紙をそっと置く。
帰り際、いつもの窓辺に視線を向けると、彼女と目が合い、手を振ってくれた。その姿に自然と頬が緩み、オリバーもまた手を振り返す。
そうだ、何を迷う必要がある。
オリバー、お前の使命はただひとつ。
彼女の笑顔を守ること。
オリバーはこれからも、戦場から届くはずのない
秘密の手紙を、アネットの窓辺へ送り続けるのだ。
お題「秘密の手紙」
「誕生日おめでとう、楽太」
目の前に差し出されたのは、朗(あきら)の穏やかな笑顔と、きっちりラッピングされた大きな箱。
「へへっ、いつもありがとな。朗」
朗は俺の幼なじみだ。運命の悪戯か、
クラス替えがあってもなぜか毎回一緒になり、
席も近く、いつも隣で過ごしてきた。
朗に促され、緊張しながら箱を開ける。
緩衝材を取り除いた瞬間、
中身を見た俺の時間が止まった。
「……嘘だろ」
それは、数十年前の廃盤になったゲーム機本体の、
新品未開封品だった。
「これ、どうしても手に入らなくて
諦めてたやつ……!」
生産終了後、プレミア価格が跳ね上がり、
今や市場では傷だらけの中古品ですら
滅多にお目にかかれない、まさに幻の逸品だ。
「楽太、ずっと欲しがってただろ?」
「朗、おまえホントに……!最高!心の友よ!」
箱を抱きしめながら感謝を伝えると、朗が喜んでくれてよかったと、満ち足りた表情で微笑んだ。
喜びに打ち震えていると、ふと、ゲーム機の緩衝材の隙間に、小さな四角いものが入っているのを見つけて取り出した。
「DVD?」
タイトルも何もない、真っ白なパッケージ。
もしかして、あの手の動画か?
いやいや、朗がそんなものを贈るわけがない。
「せっかくだから、一緒に見ようよ」
朗がDVDディスクをテレビに入れるので、
仕方なくリビングのソファに並んで座った。
映像が始まった。
最初に映し出されたのは、手を繋ぎながら歩く
父さんと母さんの姿。二人とも若い。
「男の子かな?女の子かな?」なんて
顔を見合せながら嬉しそうに会話している。
それから場面は切り替わり、母さんの大きくなった
お腹に、父さんが優しく話しかけている。
次に映ったのは、助産師さんの腕の中に抱かれて
「おぎゃあ、おぎゃあ」と泣く赤ん坊。
『元気な男の子ですよ』という助産師さんの声に、
疲れきった母さんがホッとした表情を浮かべている。
「これ俺か……?全身真っ赤で猿みてえだな」
俺が笑うと、朗も静かに笑った。
映像は、まるで加速したタイムカプセルのように
流れていく。
幼稚園。スモック姿の俺が体格のでかい悪ガキと
喧嘩している場面。
入学式。制服を着たちびっ子の俺が
門の前で母さんと写真を撮っている。
夏休み。でっかいカブトムシを捕まえて、
仏頂面のじいちゃんに見せて得意げになっている。
中学。クラスの女の子に呼び出され、
告白を受けている場面。
(あの後、すぐに振られてその子は転校したん
だっけか。苦い思い出だ)
高校。授業中に爆睡して先生にどつかれ、
みんなに笑われている場面。
他にも、弁当を猛スピードで平らげる場面、無防備に腹を出して寝ている場面……本当に、ありとあらゆる「俺」が収録されていた。
「どうだった?楽太のこれまでの軌跡」
映像が終わると、
横にいた朗がすかさず声をかけてきた。
「……てかこれいつ撮ったんだよ。盗撮だぞ盗撮!」
「あはは、ごめん。子どもの頃の楽太が、とにかく
可愛くて、どうしても保存しておきたかったんだ。
もちろん、今の楽太もすごく魅力的だけどね」
真剣な、少し熱を帯びた朗のまなざしに、
俺は恥ずかしくなってそっぽを向いた。
「ほんと、おまえってさ……、
昔から俺のこと好きだよな~」
幻のゲームを手に入れてくれたり、
俺の知らぬ間にこんな動画を撮りためてたり。
こんなやつ、他にはいない。
「うん、……ずっとね。これからもよろしく、楽太」
「おうよ」
俺が拳を差し出すと、朗もそれに答え、
コツンと、乾いた音が二人の間に落ちた。
お題「贈り物の中身」
この世界は、ある時を境に宇宙人の侵略が始まった。そして生き残った僕は、今この瞬間も、
現在進行形で宇宙人たちと戦っている。
モニターA
『外部に敵が接近中!全隊員に告ぐ!
全機出動せよ!』
『『『了解《ラジャー》!』』』
モニターB
「ねえ、きみ大丈夫?具合悪そうよ?」
モニターA
『ぐっ、敵の数が多すぎる!
ただちに応援を要請する!』
モニターB
「大丈夫、大丈夫よ。ほら、深呼吸して。
吸って〜吐いて〜リラーックス」
モニターA
『隊長!隊長!呼吸を封じられました!』
『やつら、なんて姑息な真似を……!』
そう、宇宙人らは"呼吸封じの能力"を持つ。
あれを食らえば、脳や体に酸素が行き渡らなくなり、思考力低下、手足の震え、酸欠を引き起こす。
きわめて恐ろしい技だ。
モニターA
『ぐああああああ!!!』
『戦闘機インヴェガがやられた!』
『お前らだけでも逃げろっ!』
戦闘機が木っ端微塵に粉砕される。
鳴り響く警報音。赤く染まる宇宙船内部――。
モニターB
「少しはラクになった?」
ちがう、ちがう、ちがう。
深呼吸なんてできるはずがない。
そんなことしたら、殺される。殺されるんだ!
宇宙人たちの視線が僕に一点集中している。
早くこの場から逃げ出さなければっ!
閉鎖されたラボから飛び出した僕。
途中で誰かにぶつかるが、構わず走った。
「なんだあいつ、やべえな」
「頭にアルミホイルでも巻いてんじゃねw」
後ろから話し声が聞こえる。
あいつらは無知で愚かな連中だ。この世界が宇宙人に侵略されている事実に気づきもしない。
――
「こんにちは。体調はどうですか?」
白一色の病室で、白衣の先生が優しい微笑みを浮かべている。この狂った世界で、僕の話が通じる数少ないまともな人物だ。
今までの軍医はどれもヤブ医者ばかりだった。
僕が真剣に報告しても、
返ってくるのは嘲笑、侮蔑、軽い返答。
そして最後には、食後のコーヒーのように
白い錠剤がお出しされる。
『これで気分が少しは落ち着くはずだから』
巫山戯るな!!
こんなものでやつらは倒せないっ!!!
けれど、先生は違う。宇宙人との戦闘ログを事細かく記録したレポートに目を通しながら、
先生はゆっくりと眼鏡を外した。
「今回も厳しい戦いだったようですね」
「はい。やつらはそこら中に潜んでいます。
油断はできません」
先生は深く頷くと、そっと僕の肩に手を置いた。
「君には、同じように苦しむ同胞たちを救う使命が
ある。君は彼らの英雄になるんだ」
――
部屋で一人、処方された錠剤を水で流し込む。
窓の外に広がる淡い青空を眺めながら、
ふと、奇妙な考えが頭をよぎった。
もしかしたら、宇宙人なんて本当はいないのでは?
おかしいのは僕なのか。それとも世界のほうか。
『君は英雄になるんだ』
先生の言葉が胸の中で反響する。
そうだ。この世界には、今もどこかで宇宙人に怯え、助けを求める人々がいる。
彼らの祈りを無視することはできない。
僕はひとつ、深く息を吸い――吐いた。
さあ、今日も戦いが始まる。
宇宙人たちとの、果てしなき戦いが。
お題「心の深呼吸」
夜の川原に、人々が集う。
今宵は記憶の灯火祭り。
夜空へとランタンを放つ祭りだ。
けれどもこれは、ただのランタンではない。
人々の記憶が宿ったもの――脳裏にこびりついて
離れない、もう二度と思い出したくない、
手放すことでしか、前に進めない記憶たちだ。
ひとつ、またひとつ。
黒い天蓋へ吸い込まれていく無数の光が、
川面にゆらゆらと映りこみ、この世のものとは
思えないほど幻想的な光景を生み出す。
でも忘れてはならない。
この美しい光のひとつひとつが、誰かの痛みであり、哀しみであり、後悔なのだということを。
闇があってこその光。
背負ってきた重荷を天へと解き放ってはじめて、
祝祭は喜びに変わる。
人々は祈るように手を合わせ、
光の行方を見つめていた。
――その時だ。
「ここにいたんだ」
突然、後ろから強く抱きしめられた。
声。匂い。温もり。間違えるはずがない。
たとえ頭から記憶を取り出したとしても、
身体が覚えているのだ。
心臓が激しく警鐘を打ち鳴らす。
そして、耳元に低い声が落ちてきた。
「忘れたとしても何度でも刻みつけてあげるからね」
お題「記憶のランタン」
むかし、とある寒村にアイザックという農夫がおり、一人息子のノエルと慎ましく暮らしていた。
この村では、春の訪れとともに原因不明の疫病が
流行し、毎年多くの死者を出すのが常であった。
妻マリアもまた病魔に蝕まれ、
若くして命を落としたのである。
まだ母に甘えるべき年頃であったにもかかわらず、
決して寂しさを見せずに、周囲の人たちに明るく
接するノエル。そんな息子の存在は、
アイザックにとって唯一無二の宝であった。
ある日、村に黒い祭服を纏った美しい青年が現れた。ドミニオと名乗る青年は、疫病に苦しむ子どもの額に手をかざし、たちまち癒してみせたのである。
それから瞬く間に、ドミニオは村人たちの心を
掌握していった。
彼が触れれば病が癒え、彼が祈れば痛みが消える。
村には彼のために白い聖堂が建てられ、
人々は彼を救世主として崇めるようになった。
しかしアイザックだけは、ドミニオに対して
形容しがたい違和感と嫌悪を覚えていた。
「神はお子をお選びになりました。
ノエルは神子として聖堂に迎えられます」
ある日、白い衣の信者たちが彼の家を訪れ
そう告げた。重要な役目だという言葉に、
ノエルは目を輝かせて父に行きたいとせがんだ。
意気揚々と手を振る息子の後ろ姿を見送りながら、アイザックの胸には名状しがたい不安が渦巻いていた。
果たしてこれでよかったのだろうか?
息子が聖堂へ行って一週間が過ぎた頃。
深夜、扉を激しく叩く音で目を覚ました。
戸を開くと、血塗れの男が転がり込んできたではないか。「神よ、どうか、お許しを……」
男はそれだけ言い残すと、言葉半ばで息絶えた。
直後、白衣の信者たちが現れ、我が物顔で家に入ってくるや否や、男の遺体を運び出していった。
「彼は神の愛を受け入れられなかった。
哀れなことです」
信者の冷たい言葉に、アイザックはぞっとした。
ノエルは無事なのか。自分の知らないところで、
何か恐ろしいことが行われているのではないか。
翌日、聖堂の門を叩いたが面会は許されなかった。
せめて、ほんの少しだけでも息子の顔が見たいと
頼み込んでも、門前払いされる始末。
こうなれば、手段は選んでいられない。
満月の夜、アイザックは聖堂へ忍び込んだ。
月明かりを頼りに長い廊下を進んでいると、
どこからか歌声が聞こえてくる。
半開きの扉の隙間から中を覗くと、
祭壇の上にノエルがぐったりと横たわっていた。
「さあ、神の恵みを受けよ」
ドミニオが金の杯を掲げ、信者たちも一斉に飲み干す。次の瞬間、信者たちは吐血し、苦悶の表情を浮かべながら喉を掻き毟った。そして白い靄が彼らの口から立ち昇り、ドミニオの身体へと吸い込まれていく。
「嗚呼、信仰とは何と甘美な味わいか」
アイザックは悟った。あれは、人間ではない――。
人の絶望を喰らい、神を騙る怪物だ。
「息子を返せ!」
怒号と共に祭壇へ駆け寄り、息子を抱き上げると、口から血を流し白目を剥いた信者たちの間を掻き分け、裏口から外へ飛び出した。
繋いでおいた馬に飛び乗り、闇を裂いて夜を駆ける。
すると腕の中でノエルがかすかに目を開いた。
「父さん……」
「もう大丈夫だからな、ノエル」
だがその言葉の直後、馬が激しく嘶き、アイザックはノエルを抱えたまま地面へ投げ出された。
朦朧とする視界の中、ノエルが覚束ない足取りで
森の奥へと歩いていく。
アイザックは必死に手を伸ばすが届かない。
そのまま意識は闇へと沈んだ。
――
気がつくと、アイザックは祭壇の上にいた。
体は鉛のように重く、動かない。
周囲を取り囲むは白い服の信者たち。その中には、
虚ろな笑みを浮かべるノエルの姿もあった。
「ノエル!しっかりしろ!」
「無駄ですよ」
ドミニオが祭壇へとゆっくり歩み寄る。
「彼らは皆、私の中に還ったのです。心も、魂も」
冷たい手がアイザックの頬を撫でる。
端正な顔に浮かぶのは、村人たちに向けていた
慈愛の表情とはまるで違う、歪んだ笑みだ。
「あなたは選ばれし者。神の伴侶として、
永遠に私と在りなさい」
信者たちは一斉に手の甲を合わせ、
拍手を打ち鳴らした。乾いた音が白い壁に反響する。
ノエルもまた、笑いながら手を叩いていた。
「これからあなたに祝福を授けましょう」
ドミニオはそう囁くと、アイザックの乾いた唇に、
優しく接吻を落とした。
お題「祈りの果て」