アスファルトから立ち上る陽炎が揺らめき、
照りつける真夏の日差しが、
車のボンネットを熱く灼きつける。
『着いたよ』
メッセージに顔を上げると、日傘を傾けた女の子が、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。
助手席のドアを開ける。
「ごめんなさい、待たせちゃったかな?」
ハンディファンを片手に、
申し訳なさそうに微笑む女の子。
「ううん、俺も今来たところだから」
そう答える俺の視線は、
彼女の着ていたTシャツに釘付けになった。
真っ白な生地に、大きくプリントされた真っ赤な口。ヴィレッジヴァンガードにでも売っていそうな、
かなり攻めたデザインだ。
酷く不気味に思えたが、彼女の可愛い顔と、
Tシャツの上からでも分かる豊かな
胸元を見れば、もう何でもよかった。
俺が胸元を凝視していると、
彼女は恥ずかしそうにはにかむ。
「ちょっと、どこ見てるんですか?」
「ごめんごめん。いや、そのTシャツ、
なかなかパンチ効いてるなと思って」
「でしょ?お気に入りなんです」
彼女の笑みに、俺はさらに惹きつけられた。
「さて、どこ行こうか?行きたい場所とかある?」
「うん、実はね――」
人目のつかない場所に行きたい、という言葉に、
俺の胸は嫌らしい期待で高鳴った。
が、彼女が提案したのは廃墟だった。肝試しでもするつもりだろうか。真昼間から、と少し拍子抜けしたが、それもまた一興だ。
廃墟に着き、車を降りた瞬間、真夏の熱気とは
異なる、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
荒れ果てた建物の壁には、蔦が絡みつき、
割れた窓からは薄暗い内部が覗いている。
「さ、行こ」
彼女と共に先へ進んでいると、
錆びたベッドを見つけた。
そこに腰を下ろし、手招きする彼女。
下半身に支配された俺は、同じく腰掛け、
流れるように彼女のTシャツの裾に手をかけた。
すると、白い手が俺の手をそっと制す。
「ダメ、上は脱がさないで」
着衣プレイか。それも悪くない。
むしろ、その方が興奮する。俺は欲望に目を細め、
彼女の顔を見上げた。その時だ。
「ヒヒヒヒ」
突如、どこからか声がした。
甲高く、そして粘つくような笑い声。
彼女のものではない。彼女の胸元から、
真っ赤な口が裂けるように大きく開き、
👄「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒィィィ!」
赤い口が、一瞬にして膨張し、俺の顔を、
頭を、そして身体を、すべて飲み込んだ。
バリバリ、むしゃむしゃ。
肉を噛み砕く鈍い音と、骨が砕ける耳障りな音が
廃墟に響き渡る。
痛みを感じる間もなく、俺の意識は闇に落ちた。
「あーあ、また口元汚しちゃって、
もう〜、かわいいんだから」
彼女は胸元の赤い口の端を指でそっと拭う。
まるで、恋人の食べこぼしを拭くように、
優しく、愛情を込めて。
👄「ヒヒヒヒヒ」
赤い口は、満足げに笑い、そしてゆっくりと
Tシャツのプリントへと戻っていく。
先ほどまで真っ白だった彼女の半袖Tシャツの
白地は、鮮やかな赤色に染まっていた。
お題「半袖」
玄関の明かりが灯ると、熊吉は深い安堵に包まれた。シンと静まり返った家は、
まるで彼の帰りを待っていたかのようだ。
両手にエコバッグを抱え、今晩の献立を頭の中で
並べながら、キッチンへ向かう。
サラダ、カルパッチョ、ブルスケッタ、ステーキ肉。
締めは妻の好物である苺を贅沢に使ったホール
ケーキ。奮発して、年代物のワインも開けようか。
「パパ〜、なにしてるの?」
包丁を軽快に操っていると、足元から幼い声がした。娘のミキが、興味津々といった様子で覗き込む。
「ご馳走を作ってるんだよ。今日はパパとママの
結婚記念日だからね」
「ごちそう!?やったー!」
ご馳走という言葉に、ミキは目を輝かせ、
無邪気に小躍りし始めた。
「でもね、今日はパパとママ、二人だけの
特別な日だから、ミキは邪魔しちゃだめだよ」
「えー!ずるい!ずるい!」
ぷう、と頬を膨らませる娘に、熊吉は苦笑する。
「じゃあ今度、Switch2を買ってあげるから、
それで許して」
娘のご機嫌を取りつつ、熊吉は壁の時計に
目をやった。もうすぐマユのシフトが終わる頃だ。
彼女はどんな顔をするだろう?
きっと喜んでくれるに違いない。
「ママ、遅いねぇ」
ソファに寝転がったミキが、
足をパタパタさせながら呟いた。
「そうだ、ママに写真を送ろう。
このケーキを見せたら、きっと喜ぶよ」
「賛成~!」
二人は真っ赤な苺のケーキを挟み、
満面の笑みでシャッターを切った。
メッセージを添え、送信ボタンを押す。
熊吉はそっと目を閉じた。
――マユ、早く帰っておいで。
そして、僕たち二人だけの愛の時間を過ごそう。
――
「はぁ……」
控え室でスマホを片手に、マユは深い溜息をついた。
今日のバイトもようやく終わり。
しかし、疲労はピークに達していた。
「お疲れ様、マユ。大丈夫?顔色悪いよ。
もしかして、またあの人?」
バイト仲間のヤヨコが、心配そうに声をかける。
その言葉に、マユは力なく頷いた。
「うん……」
マユは震える指でスマホの画面をヤヨコに見せた。
大量に送られてきたメッセージの羅列。
すべて、彼女目当ての常連客からのものだ。
『マユ、今日も一日お疲れ様😃朝から暑くて
ヘトヘトだよ~(^_^;)💦マユはもう上がり?
終わったら連絡してほしいな😉』
『ミキと一緒に結婚記念日のディナーを作ってるよ(´∀`)ノ⭐️早く帰ってこないと全部食べちゃうかも😘』
マユの勤務先に頻繁に現れる三毛別熊吉。
軽い世間話をしただけなのに、開店から閉店まで
居座り、しつこく連絡先の交換を求められ、
とうとう根負けして教えてしまったのが運の尽き。
それ以来、一日数十件にも及ぶメッセージが
届くようになり、マユは心身ともに削られていた。
彼の中では、マユと自分は「結婚している」ことになっているが、そもそも二人は付き合ってすらいない。
「このミキって誰なの?」
「さあ……なんか、私との間に子どもがいる
設定みたい」
「えっ、何それ、怖すぎるよ。
警察に相談した方がいいって」
「……」
はっきり拒絶すべきなのは分かっている。
だが、下手に刺激すれば何をされるか――。
マユは青ざめた顔で、
再びLINEの画面に目を落とした。
そこには、『二人の結婚記念日おめでとう』と書かれたケーキを掲げる、熊吉一人の写真が映っていた。
お題「二人だけの。」
「ねえ、なんでそれ、いつもつけてんの?」
友人の天津が、奉献の首元にかけられた
ペンダントを指さした。
奉献は自分の胸元で鈍く光る青い石を見下ろす。
物心ついた時、いや、それよりもずっと前から
肌身離さず身につけていたものだ。
幼い頃に亡くなった母親が
お守りだと言っていたような気がする。
「わからん。でもなんか、外すの怖くて」
「ふぅん」
天津の表情が、一瞬だけ陰りを見せた。
「なあ、奉献。その石のこと、
詳しく調べたことあるか?」
「え? なんで急に?」
「実は……」
天津は奉献の向かいに腰を下ろすと、
真剣な声音で話し始めた。
「図書館で郷土史を調べてたら、お前の実家が
あった地域の古い記録を見つけたんだ」
天津は一呼吸置いて、言葉を続ける。
「その石に酷似したものの記述があった。
『青の呪石』って呼ばれてたらしい」
「呪石?」
奉献の脳裏に疑念がよぎる。
「昔、その地域では奇妙な死が相次いでいた。調べてみると、皆が同じような青い石を身につけていたんだと。石を身につけた者の周りでは不幸が続き、
やがて持ち主本人も命を落とす、と書かれていた」
「まさか、そんな……」
奉献は首を振った。そんな話、一度も聞いたことが
ない。迷信に決まっている、と断言したいのに、
言葉は喉の奥に引っかかった。
幼い頃、両親を事故で亡くし、祖父母のもとで
育った奉献。その後も仲の良かった友人の家が
火事で全焼したり、大怪我を負ったり、
奉献の身の回りでは不幸が続いた。
いつしか奉献は「呪われた子」だと
影で囁かれるようになり、それを知ってからは、
人と距離を置くようになった。
田舎を出て大学に進学してからも、親しい人間を作ることはなかった奉献に、真っ先に声をかけてくれたのが、天津だったのだ。
いつも周りを人に囲まれ、背が高く、顔も整って
いて、女にモテる。そんな奴が、まさか自分の友人になってくれるとは思いもしなかった。
「石、手放してみないか?」
――
二人は市街地から離れた山道を歩いていた。
聞こえてくる鳥の不気味な鳴き声や、
木々の葉擦れの音が、奉献の心をざわつかせる。
「ここでいいのか」
奉献が小さな池のほとりで立ち止まると、
隣にいた天津が頷く。
奉献は震える手でペンダントを外し、
池に投げ入れた。
と同時に、激しい耳鳴りがした。
全身を襲う耳鳴りの中、かろうじて崩れ落ちるのを
堪え、石が水の底へと沈んでいくのを見つめる。
その時、ポケットに入れていたスマートフォンが
震えた。祖父からだ。
スマホを耳に当てると、怒っているような、
どこか焦りに満ちた祖父の低い声が聞こえてきた。
「石、外したな」
深刻な声で断定する祖父に、
奉献は戸惑いを隠せない。
「今すぐ逃げろ」
ノイズが走ったように祖父の声が
途切れ途切れになり、ぷつりと通話が切れた。
スマホの画面を見つめる。
逃げろってなんだ?
ていうか、なんでじいちゃんは俺が石を
手放したこと知っているんだ?
さまざまな疑問が頭を飛び交う最中、
いきなり強い力で腕を掴まれた。
「天津?」
「やっと、お前に触れられる」
天津は俯いており、その表情はよく見えない。
言い表せない不安が背筋を伝いながら声をかけると、天津はゆっくりと顔を上げた。
「ありがとう、奉献」
天津は、今まで見たことがないくらい
嬉しそうな顔で笑っていた。
お題「隠された真実」
「パパ、怖いよ」
窓の外から聞こえてくる呻き声に、
娘のレイチェルは怯えて父親に縋り付いた。
「あなた……」
妻のドロレスもまた、夫の名を呟き、
華奢な肩を震わせた。
「大丈夫だ。父さんが必ず、
二人を守るから……」
手の中のバットを固く握りしめるテディ。
釘を打ち付けた壁を叩く音が激しさを増す。
やがて、轟音と共にバリケードが崩れ去り、
おぞましいゾンビの群れが雪崩れ込んできた。
「逃げろ!」
家族を庇うように前に躍り出たテディは、
ただ無我夢中でバットを振り回す。
しかし、その数はあまりにも多すぎた。
妻と娘の悲鳴が、耳朶をつんざく。
「やめろ!」
家族を守らなければ、守らなければ──。
視界が白く霞んでいく中で、
鮮烈な光景が脳裏を駆け巡った。
血に塗れた部屋。横たわる妻と娘。
そして、その傍らに立ち、
口元を赤く染めた自分の姿が。
夜の帳が降りた墓地で、テディは目覚めた。
冷たい土の中から、朽ちた身体がゆっくりと
引きずり出される。夜露に濡れた地面が、
彼の土気色の皮膚にまとわりついた。
「おはよう、今宵も良い夢を見ていたようだね」
澱んだ空気に似合わない、
清澄な声が頭上から降ってきた。
見上げれば、そこに立つのは黒衣の男。
夜闇に溶け込むような深みのある瞳は、
ぞっとするほど冷静に、テディの全てを捉えていた。
ネクロマンサー。
死者を操り、使役する者。
この世界で、彼だけがテディの主人だった。
ネクロマンサーは、まるで愛おしいペットでも撫でるかのように、テディの頬に触れた。細く、しかし
確かな熱を帯びた指先が、腐敗した皮膚の上を滑る。
「君はいつも、あの日の夢を見ている。
家族を守る、勇敢な父親の夢を。
……いい加減、飽きないのかい?」
吐き出された言葉は、テディにとって
何よりも恐ろしい現実を突きつけた。
感染し、飢えに駆られ屍と成り果てたあの夜。
人間としての理性を失い、
愛する家族を喰らった忌まわしい悪夢。
テディの心の奥底に深く封じ込められた
記憶を、ネクロマンサーはいとも容易く
覗き込み、残酷な真実を突きつけるのだ。
テディの喉から、軋むような音が漏れた。
言葉にならない、絶望の叫び。
妻の首筋に噛みついた記憶。娘の小さな体を
引き裂いた記憶。血の味、肉の感触。
それら全てが、生々しく蘇る。
「──殺してくれ」
喉元を掻きむしりながら、
くぐもった声でテディは呟いた。
最愛の家族がいない世界で、生きているのか
死んでいるのかさえ分からず、飼い殺される。
そんな現実は、彼にとって耐え難い地獄だった。
「そんな顔するなよ、テディ」
ネクロマンサーは、テディの肩を抱き寄せ、
その冷たい頬に自分の顔を埋めた。
土と腐敗の匂い。それでも、ネクロマンサーは
恍惚とした表情を浮かべる。
「君は、私のものだ。永遠に、私の傍らに
いるべき存在。どんな幻想に溺れようが、
決して逃がしてはあげないよ」
テディは、ネクロマンサーの腕の中で震える。
心臓はとうに止まっているのに、
胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。
夜闇に生者の悲鳴が響き渡る中、声も立てずに
泣く屍を、ネクロマンサーは抱きしめながら、
邪悪な笑みを浮かべていた。
お題「心だけ、逃避行」
村に馴染めない子どもがいた。
クリス――不思議な力を宿した子ども。
話してみたら、案外面白いやつだった。
ふと手を引いたとき、クリスの指先は、
雪解け前の氷のように冷たかった。
「僕に触れると……傷ついちゃうよ」
うむむきながら、怯えるように話すクリスに、
エミルはにかっと笑う。
「大丈夫。おれ、強いから」
その言葉にクリスは目を見開いたあと、
ふわりと頬を染めて微笑んだ。
――
ふたりはよく、エミルの祖父の工房を訪れた。
村のジオラマ、走る蒸気機関車、木彫りの動物、
色とりどりの鉱石――
物作りが趣味の祖父の家には、
いつもわくわくするような宝で溢れていた。
中でもクリスの目を奪ったのは、飴色の石だった。
小さな虫が閉じ込めれたその石は、光にかざすと
きらきらと輝き、金色の影を床に落とした。
「これは琥珀と言うんだよ」
祖父が語る。
「太古の命が、昔の姿のまま保存されているんだ。
美しいだろう?」
「美しい姿のまま......」
そう呟きながら石をじっと見つめるクリスの横顔に、エミルはふと目を留めた。
頬がわずかに上気し、透けるような肌の下、
青い血が流れているようだった。
――
月日は流れ、エミルは村を出て、
首都で騎士となった。
数年ぶりに帰郷した彼を待っていたのは、
異様な光景だった。
かつて賑わいに満ちていた村は、夏の只中にも
関わらず氷に閉ざされ、静寂に沈んでいた。
「これは一体......」
「水晶の悪魔の仕業でございます」
街角で焚き火を囲んでいた一人の老人が囁いた。
――
老人から話を聞き出したエミルは、ある場所を
目指し、雪の降りしきる大地を進んでいた。
谷奥にそびえる、クリスタルでできた塔。
辺りに漂うナイフのような冷気は、毛皮の上からでも肌を刺し、呼吸するたびに肺が痛むほどだった。
内部には無数の結晶柱が並び、その中には動物や
人間たちが恐怖の表情のまま凍りついていた。
見覚えのある村人たちの顔も、そこにはあった。
そして塔の最奥、
輝く玉座に腰掛けていたのは--
銀色の髪に、氷を閉じ込めたような青い瞳を持つ
美しい青年だった。
「......クリス」
「久しぶりだね、エミル」
その瞳は、懐かしさと底知れぬ冷たさ、
そして得体の知れない熱を孕んでいた。
「僕の作品、見てくれた?」
「作品だと?」
「そう。愚かな村人に人間の欲により滅んだ
動物たち。肉体は衰えいずれ朽ち果てるが、
ここでは永遠に美しい姿のままだ」
言葉の奥に、かつて琥珀を見つめていた眼差しを
思い出して、エミルの心に氷の刃が突き刺さる。
そして――クリスタルの中に、眠るように微笑む
家族の姿を見つけた瞬間。
震えた拳から、剣が滑り落ちそうになった。
「......おまえは、そんなやつだったのか」
剣の切っ先を突きつければ、
クリスは酷く傷ついた顔をした。
「もっと、喜んでくれると思ったのに」
――
剣は砕かれ、血に濡れたエミルは、
クリスタルの床に横たわっていた。
クリスはエミルの傍らに膝をつき、彼の頬に触れた。
その指はいつかと同じ、氷のように冷たかった。
「あたたかい......」
ひとりぼっちだったクリスに、
かつて微笑みかけてくれた唯一の人。
「お前も、閉じ込めてしまおうか」
クリスタルの中に眠るエミルの姿が脳裏に浮かぶ。
大好きな友を永遠に自分のものにできる。
けれど――太陽のように笑い、自由に駆け回る
エミルの姿も、クリスはまた、愛していた。
頬から首、胸元へ。
ゆっくりと手を滑らせていく。
徐々に消えかけてゆく命の灯火を感じながら、
クリスは冷たい吐息を零した。
お題「クリスタル」