潮風に揺れる黒い帆。陽光を背に受け、
海賊船ジョリー・ロジャー号が静かに波を切る。
「さて、最後の質問だ。仲間になるか、死か。
今ここで選べ」
ニヤついた笑みを浮かべる船員たちが見守る中、
板歩きの刑に処される子どもは震えながらも、
毅然としていた。
「なぜそんなにもあいつを庇いたがる」
フック船長の声には、どこか怒りとも焦りとも
つかぬ色が滲んでいた。
「考えたことはあるか? なぜネバーランドに
大人がいないのかを」
大人は、あの島に歓迎されない。成長した者は追い出されるか――あいつの手によって”消される”。そしてまた、外の世界から新しい子どもを連れてくる。
その繰り返しだ。
そうさ、成長したフックが帰ってきた時、
あいつはそう言ったのだ。「大人はいらない」と。
その言葉を思い出すたびに、フックの胸の奥に、
鈍く、鋭い痛みが走る。
そのときだった。
空からひらりと舞い降りる影——
緑のチュニック、いたずら好きな笑み。
そして、何ひとつ変わっていない子どものままの姿。
ピーターパンだ。
「僕に会いたかった?」
「……ああ、心の底から、な!」
船上では、船員とロストボーイズによる戦闘が
繰り広げられていた。甲板では、ピーターパンと
フックの剣が交わり、金属音が激しくぶつかり合う。
フック船長の攻撃をピーターパンは軽やかにかわし、
まるで遊びの延長のように、
おもちゃめいた短剣で受け流してくる。
「お前は本当に変わらないな。
生意気で無礼な小僧め!」
「フック、おまえは随分変わったな!
哀れで邪悪な男。昔はもっと可愛げがあったのに」
——チックタック、チックタック。
「ん? おやおや、お前のことが大好きなお友達が
やってきたみたいだ」
ピーターパンが指差す先、そこには金色の目だけを
覗かせた巨大なワニが、獲物をじりじりと狙い定め、水面を漂っていた。
フック船長の顔が引きつり、
体がぶるぶると震え出す。
「う、うわあああ! スミーッ!!
ミスタースミィーーッ!!!」
「はいな! ただいま参ります船長ぉ!」
小舟に乗ったスミーが現れるや否や、慌てて飛び乗るフック船長。甲板に残されたピーターパンは
腹を抱えて笑っている。
その無邪気な悪意が、フックの心を深く抉った。
「覚えていろ! 次こそお前を——!」
そう捨て台詞を吐いて逃げ去るフック船長の
背中に向かって、ピーターは蚊の鳴くような声で
ぽつりと呟いた。
「……お前が先に、去ったんだよ」
* * *
執念深いワニから逃げ切り、ようやく船に戻った
フック船長は、ぜいぜいと息を荒げて
肩を上下させていた。
「憎きピーターパンめ。今度会った時は必ずや、
この鉤爪でお前の喉元を抉り出してやる!」
鈍く光る左手の鉤爪を天に掲げ、宣言するように
吼えるフック船長に、スミーが問いかけた。
「しかし船長。ピーターパンをやった後は、
どうなさるんで?」
フック船長の手が止まった。
あいつがいなければ、俺を突き動かす炎も消えて
しまうだろう。そうなった時、俺は一体どこへ行く?
フックは懐から小さな羅針盤を取り出す。長く
使われ、錆びた針は、とうの昔に壊れてもう方向を
指さない。針は、くるくると虚しく回り続けていた。
針路を見失った羅針盤。
それはまるで——
優しい母のいる家にも辿り着けず、ネバーランドにも帰れない。行き場をなくして、果てしない大海原を
彷徨う自分自身のようだった。
お題「心の羅針盤」
(※悪役令嬢という垢の同タイトルと話が繋がってます)
8/8/2025, 1:15:23 AM