後悔
「後で悔やむ」。実際、後悔していたときは、この「後悔」という文言があまりにもそのまんまである事実にすら、塩擦り込まれる想いがした。後で悔やむから「後悔」、わかってるよそんなこと。絶対的な「今さら」に木っ端微塵になってんだから、そこへさらに「後悔」の漢字でフリカケモリモリとか埒もない。
後悔は確かに「過ぎたものごと」にかかる。現在進行形なら後悔などは姿もない。過ぎてきたものだからこそ、「取り戻せない」「戻れない」→「なかったことにできない」→「自分を責めることを手放せない」、となる。
じゃあ、後悔は無駄なものだろうか。
端的に言ってしまえば、「重大な後悔」の中身は“命に関係する出来事”と、“愛にまつわる自分のあり方”へのものだと思う。ここでは、「しまった、あのときにああしとけば…」とか思っても暫く経てば薄れる質の後悔、つまり「やろうと思えばこの現実での事態の収拾が可能な程度の後悔」は勘案しない。
後悔の厄介なところは「自分を責め続ける」ことだ。
さて、自分を責めて、誰かが幸せになったり救われたりするかというと、絶望的なまでにそんなことにはならない。はっきり言って、「後悔あるが故に自分を責める」ことが「よろしき力になる」展開は永遠に無い。
でも「取り返しがつかないものごとへの後悔」の、「後悔をほどきたい、できるならば」という想いには、行き場がない。悲しいかな、亡くなった人が戻って来ることはないし、縁の遠く離れた人には再会の可能性はなさそうだ。←これがコアだ。これを超える鍵は何だろう。
「罪悪感と親友でいる後悔なのに、それを“超える”なんて申し訳なさの上塗りだろ。だいたい忘れるなんて人間としてクズじゃないのか」などと言うバイアスがしゃしゃり出て来そうだ。その後悔の対象である人は、いつまでも自分自身を責め苛み痛む心を見て喜ぶ人なのだろうか……? むしろ悲しむのでは……?
後悔は傷だ。心は血を流している。癒し始めるまでは、生傷の痛みがある。適当な何かを絆創膏にしても、血は止まらない。
どうにもならない、取り返しがつかない、できるわけがない、という感覚もバイアスだ。心と心の間にあるものに、物理的な形が必須だろうか。心は届く。
後悔の自責に沈むより、後悔あればこその愛の発現を目指すことが、後悔を感謝に変容できる。その想いは届く。私は気休めなど言ってない。そんなヒマは無い。古い思い込みは捨てるのがいい。いのちは、存在は、がっっっつり在り続けるからだ。(手遅れなんて無いんですよ。ちゃんと生きて、ちゃんと死んで、確認しましょう)
風に身をまかせ…幸い、風で飛ばされる経験は今のところ無い。竜巻に出くわしたことも無いし。
風まかせなら植物の綿毛とかかな。
子どもが小さかった頃、「それゆけ!アンパンマン」をテレビで見ていたのだが、ある回で“タンポポちゃんとロールパンナ”というお話があった。
風に身をまかせて旅するタンポポちゃんに出会ったロールパンナは、タンポポちゃんが育ちよい着地点に落ち着けるように旅について行く。小川の水流に巻き込まれないようにしたり、湖に落ちないようにしたり、「その状況は先が見えている(芽吹くことなくタンポポちゃんは生涯を終えてしまう)」事態が発生するたびに、風を起こし(ロールパンナのわざ)、旅を続けさせる。
タンポポちゃんは不思議がる。「タンポポは風さんまかせ、どんな場所であろうと風さん次第。なのに、どうして助けてくれるのですか」と。ロールパンナは答えない。タンポポちゃんに問われた後も、やっぱり助ける。
この回は印象強くて、たまに思い出す。大人的には、あれこれと私見があるのだが、ここに書くのも無粋に過ぎる気がするのだ。ロールパンナは首尾一貫して助け続け、タンポポちゃんはそれを止めない。この回のセリフはものすごく少ない。ただ、ロールパンナというキャラクターは、葛藤を持っている。「何が善で、何が悪なのか。自分の中には両方の心がある」と。
今も、この回のおはなしには言葉に表しにくい何かを感じる。ロールパンナ自身も風の中に居る。
失われた時間かぁ…
先日、私は今に続く四半世紀の間が、喪失と同様のものなのかどうか考えねばならない問題にぶち当たった。全体の流れと状況の推移、現実の構造に鑑みて一つ一つの要素を遡っては戻り、各要素の相関関係と既に顕現したものと、関わる各々が今後に発現する可能性の最上のものは何か、この現実ラインの状況は全くイレギュラーな割り込みかどうか、なぜ私だったのか。
侮辱的な動機を以てこんなものを走らせているのなら全部消し飛ばしてくれるわ、と考えながら猫又に尋問をかけ、状況を再確認し、全体像を俯瞰し、本質を凝視して、結果、喪失ではないと結論した。
「過ぎてきた」時間が活きるものになるかどうか、ひとえに人間自身の選択と心的態度が決める。たぶん。活きるものにするために、みっともないほどの執念を燃やすことも、ときには必要だ。
さあ、暗雲を払うぜ。
私のだいじな仕事は別にあるのだから。こんなものに邪魔などさせぬよ。
子どものままで
自分のなかの「子ども」を表に出すのは楽しい。大人を自称している人や、成長段階の「脱皮・新構築」時期の人などからは冷ややかなナナメ目線が返ってくるので、「大人」と書いたお面をかぶる。家に居るときは子ども達が居るから、かまってもらえて楽しい。
思えば、人員の多い職場に勤めたときはいつも、隙あらば同僚達ともきゃもきゃ遊び、仕事に取り組むときだけ「大人」と書いたお面をかぶっていた……と書くと、“ダメな大人”と認定されそうだが、実感として、その方が仕事への集中力をスムーズに発揮できる。メリハリのせいか、いきなり仕事スイッチへ切り替えることができた。「子ども」よろしく遊ぶと、「大人」ならどう振る舞うかという「対比」を取りやすい。
生きやすくいるために「大人」と書いたお面を持つのはスキルだが、それも子どもゴコロというベースがあって初めて成立する。きっちりと子どもをやらないで時間を過ごしても、しっかりと大人になるわけが無い。しばしば、世では「子どもなんて」などと、ワケの解らん否定性のモヤのようなものが闊歩していたりするが、その風体と言ったら「子どももやれず、然るべくして、大人にもなれない、つまらぬ都合につながれて、くさくさするから通りがかりの誰かに噛みついてはゴネるもの」…
子どもゴコロは明るく健やかで力強く、周りの人達にも華やかで安定的な活力を発揮させる。
子どもゴコロは生涯消えない。
成長とともに消えるべきものではない。寧ろ「大人であるに必要な力と覚悟」のタネなのだ。…なんか以前にもこんなことを書いたような…まあいい。
本当に自分自身の意図と自発性・自律性で進んでいる皆さん、あなたの子どもゴコロは今このときも、元気でしょ?
モンシロチョウが頭の中でほわふわひら、暖かい日なたの平和に現を抜かしてたら事件は起こった。自分の人生が喰われたものだと思いたくない。割り込みに喪失したものがあるかもしれぬなどと、ともすれば悲しく、悔しいような感情に、内側の天秤が傾きそうになる。怒りが煮える前に、掴める本質を見つけなければ…
自分自身からの愛を求める「未だ照らされていない」心は、叫んですらいるのだけど、声なき声は知らんぷりの憂き目に遭いやすい。そんな状態であるばかりに、周りをも巻き込む苦痛と悲しみを顕現し、内側の被害者意識は無責任を決め込み、自分ばかりが不幸だと自慢を始める。安い自慢だ、続きを言ってみろ。
私のアンカーを損なうな。バケモノを見なくて済む安寧を選ぶが良い。「やられてきたから仕方ない」…? “気が合うな、私もだよ”などと「私」が響き始める前に、己の足元で呻く痛みを直視しろ。
愛は静かに自ら立つ。力に責を持ち、結果を受け止め、エゴの表面を突き抜けて、いのちを直視する。内側の叫びに応えろ。ほかならぬ自分自身じゃないか。バランスを保て。だいじなものがあるなら。
まだアンカーは無傷だ
落ち着け
目を開け
しっかり立て