幸せとは
子どものまるいほっぺた
小さくて大きな育ちの温もる手
看板なんて無くて良い
ただに幸せに生きてくれれば
私は笑って死ねるかも
ずっと星のように輝きかけてくれる
愛するあのひと
そばに居られなくても
その幸せを私が祈っていることを
知っていてくれれば
私は心強く生きられるかも
無力感に引っ掻かれて
暴虐を為しては無力感から逃げられると
錯覚に気づいていながら目を逸らしているひとびと
自分のなかに光り続ける力を見つけてくれたら
私は安心して去れるかも
自分に罪ありと己を苛むかの者
処罰なんて虚しいものじゃなく
癒しを育むことに向かってくれれば
私が闘う必要もなくなるかも
みんな幸せになれば良い
そうしたら、私はしばしの休養に入ろう
愛してやまぬ存在のもとへ帰って
クリスマスの過ごし方
さて、みんなどう過ごしているのだろう。日本は25日を過ぎれば一気にお正月モードへなだれ込む様子が強い。クリスマスは25日から新年三日間あたりまでだが、イベントとしてのクリスマスと考える人達は24日25日が過ぎたらもうクリスマスなど終わったものとして見向きもしないのでは。
私は仕事三昧だった。子どもは発熱している。急遽対応するため短時間で仕事を切り上げたが、病院の混雑といったら大変なものだ。「発熱からの時間経過が短いので、これで熱が下がらないようなら明日また来てください」と。…いかん、関係各方面に連絡せねば…
こんなクリスマスだ。今年はね…
プレゼント
贈り物を受け取ってもらえること自体もプレゼントだと、思う。
受け取る力があることも、言わばプレゼントだ。
ありつづけるのも、通り過ぎるのも
受け取ればこそ、プレゼントになる
何も見えなくなりそうな、闇の奥にも星はあった
星の光を導に目を開く
イルミネーション
仕事中に派手に転倒した。何故そうなったか2日経った今でもわからない。問題は、まるで車にはねられた人みたいな状態になったことだ。誤魔化しながら仕事をしたが、目まいと視界のブレ、呼吸のしにくさ、体幹部に感じる説明し難い不調、終業の頃には変な汗が額に滲み、何とか帰宅して血圧を測ると異様に低い。全く食欲が湧かず具合の悪さに横になる。翌日はひたすら全身が痛い。くしゃみひとつで身体に強い痛みが出てもんどり打つ。発熱あり。延長線上だと思うが頭痛も強い。痛み止めは1回に倍量を一日に3回服用(危険なので絶対真似してはいけない)。身体内の痛み物質多過ぎ。骨折はなさそうではある。臓器損傷は……?
子どもは「救急車呼ぶ?」と不安そうな顔をしていた。当然だ。転倒した自分に腹が立つ。
短期間で治癒しなければならない。私が家庭の屋台骨なのだから。消耗に差す眠気に、いつの間にか落ちる…
点のような光がいくつも見えた。それは見る間に増えて、光の海のようになり、私はそこに「落ちて」、身体という「境界線」は消失した。何も考えず、思い浮かぶものも無いまま漂う。漂い続いてブラックアウト……はた、と目が覚めた。身体に少し、力が戻っているようだ。体幹は軽くなっている。存外に早く動けるようになりそうだ。
壊れた守りをなおさねば。簡易型だが役に立つのは間違いない。そして、自身の覇気を新たにせねば。
今はもう少し、養生しよう…
仲間
来し方を振り返ってみたが、「仲間」という表現が腑に落ちる人間関係の憶えが無い。「友」ならあるけどね。なので調べてみたが、「目的を同じくする人間関係」だと。……やはり憶えが無い。