郡司

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5/10/2024, 9:47:36 AM

忘れられない、いつまでも

私の場合、忘れられない印象の人は少ないのだが、ただ見ただけなのに今でも忘れられない、鮮やかな人の話を。1995年のことだ。

その人は、あきらかに小学生と覚しき子ども達を8~9人連れていた。いや、連れていたというより、子ども達が来たがったので保護者的についてきたようだった。

老齢の女性で、姿勢よく、グレーの髪は低く団子にまとめ、薄い藤色に薄青系の濃淡が上品な訪問着(和服)を銀の帯でお太鼓に結び、きれいに着付けた姿がとても美しかった。若い頃から美人でいらしたに違いない。優しそうでもある。

あら素敵、と思いながら私は心配もした。
その場所は真駒内陸上競技場のスタンド。夏のさなか、これから日暮れといえども和服は結構に暑いのではなかろうか…? 同行者は子ども達。私は気になってしまい、その後もその人の様子をしばしば見た。

その日、私はLIVEのためにそこに来ていた。兄がチケットを友達と手分けして得たものの、枚数に人数が足りないからお前も来い、と。鷹揚な時代のロックのコンサートだ。そう、ロックなのだ。そこに件の女性である。

さて、LIVEの開始からしばらく経ち、私はまたその人の居る方を見た。驚いた。彼女は両足を肩幅に置いて、両腕を上に伸ばしていた。グーで。とても楽しそうだ。私は、クレーンバケットに乗って一生懸命歌っているフロントマンより彼女の姿に夢中になった。なんてクレイジーでなんて素敵! 彼女は本当に楽しんでいて、私のように後ろから見ていた若い者達を嬉しい気持ちにさせてしまったのだ。老婦人、和装の着こなしも姿勢も完璧。その姿でROCKのLIVEの楽しみ方も完璧。

ずいぶんのちに、彼女の姿の記憶は私の重要なインスピレーションの基となってくれた。まことに鮮やかな人で、今でも忘れられない。

5/9/2024, 9:31:09 AM

一年後
カレンダーが示す一年後…

今の私は並走するいくつかの現実ラインを「疾走」している、と言って間違いない。「それはそれ、これはこれ」と、それぞれのラインが独立性高くあるのなら「力押し」で後腐れなく片付くが、先頃は面倒なことこの上ない相互レギュレーションがある。

つつがなく過ごすを最上と考えるこの現実
ほぼ闘うばかりで気を張る隣の現実
磨き、鍛え、洗練を目指すあの現実

あの現実は良い。むしろ基準にしたい。この現実のなかへ引き込むことは目標のひとつだ。気の鬱ぐ課題は隣の現実だ。各者に働きかけ、集約点ができるのを促し、ようやくおおまかな全体像を掴んだけれど、この後は質の異なる間口をひらく必要が出るだろう…

時間経過感覚も当てにならない側面の多い日々、「いま」曇りなき炎でいつづける必要に疾走していると、「一年後は知らぬよ…」と思う。

覇気の失せぬように。
くたばらぬように。

5/8/2024, 12:23:47 AM

初恋の日、ね…もうね、ふんわりし過ぎてて、どうだったっけ、と回らない頭で記憶を漁り…「きになる」ていどのはあったと思い出したけど、それが恋かどうかと考えてみると、今の私の感覚で振り返ると、違う。「あまずっぺー初恋」と覚しきものが、自分の記憶の中に見当たらないことに今ちょっと驚いてもいるんだが、「初恋」という文言でついでに思い出したのが、今はもう無いチョコレートのTVCMだ。村下孝蔵の「初恋」という曲が使われていた。チョコレートの印象づけと同時に流れる歌。私はそのチョコレートが現れるとものすごくわくわくしたので、記憶にもよく残っている。

「初恋」と「恋」とは違うのか?
「初恋」は甘酸っぱくないとダメなのか?
「初恋」を一気に愛まで突き抜けるのは「初恋」じゃないのか?
「初恋」のイメージってどこから来たんだろう。

頭を使ったからチョコレートでも食べよう…

5/7/2024, 6:28:54 AM

明日世界が終わるなら

終末の光景、いちばん為したいこと、ギャグ、そして明日へ続く希望を置いておく心。一通りあるから、じゃあ私は無粋を。勿論、「明日世界が終わるなら、どうする?」という趣旨のお題であることは了解している。私は「終わる世界」をどうしてもイメージできないから、ひねくれ線で。

昔、予知夢を見る人が居た。ある日、その人が「世界が終わる予知夢」を見た。年月日までくっきりと、リアルに過ぎるものだったため、その人は「世界が終わる」と訴えてまわった。さて、まさにその日付の日になって、世界は終わることなく、その人は亡くなった。確かに、その人の「(個人的な)世界」は終わった。実話だ。

いつだったか年は忘れたが、「11月21日でマヤ暦が途切れているから、それは世界の終わりを示している」という、なんだか昔懐かしい種類の話があったが、ご存知の通り終わってない。マヤ暦にしても、ノストラダムスにしても、「世界が終わるぜ。滅亡だ!」という明言が無い。なんとなく解釈されて、そこからなんとなく予想されて、さらに尾鰭が付いて、あたかも決定事項であるかのように滅亡とか終末とか、ある種の「祭」が空気の中を練り歩く。

さて、明日に終末が置かれたら、多くの人が「間に合おう」とするんだろうなと思う。自分の中にあるけど未だ顕していない「自分の愛」に間に合おうとする。たぶん。

なら終末があるかどうかなんて関係なく出しとけ、出さないことがより良い愛のあり方ならこの限りじゃないぞ…と、考えてみる。私の頭にブーメランが刺さっていることは、まあ置いといて。

愛を表すために具体的にできることって、きっと日常のなかにもたくさんある。そしていちばん得意な土俵は、大抵の人が「日常のなか」だ。日常で表現される愛は、わかりやすく、差し出しやすく、受け取りやすく、温かさが間近だ。…日常、すごいな。




5/6/2024, 6:33:54 AM

君と出逢って、私のアンカーが増えた。錨。ground   anker。生きる理由と言うと大仰に聞こえるかもしれないけど、仕方ない。

以前の私には、生きることへの執着…というか、肯定的な意欲、のようなものが、薄かった。身体が死に至らないから、漂うようにただそこにいただけ。一日のほとんどの時間、思考もできず部屋の壁だけ見ていた時期もある。やりたいことなど何もなかった。何故生きてるんだろう、食べてるからかなんて1回呟いただけの日とか。精神科にはかかっていない。念のため。

漂っていたから、身近な流れに引っ掛かりものごとが起こり進んだ。結婚などは、回っている全自動洗濯機の水流に放り込まれたTシャツさながらだった。心の波に変動があったものの、結局は義務らしきものが主軸になり、主体性が薄いままなのは変わらなかった。

子どもは私の最初のアンカーになった。最初のうちは義務感に寄りがちではあったけど、「親という部分は子どもが育てる」というのは本当だと思う。きびしい不足や人の不始末を始末する中でも、生き抜いて行く意志が初めて出てきた時期だった。

ひとり、またひとり、大切な存在を見つける度に、アンカー(生きる理由)が増えた。アンカーであってくれる人が居ると、たくさんの人の、それぞれの輝きや温度が見えるようになった。星だ。私のアンカーは私の星。

人の世に居るから、自分が重いものにならないように(だいたいこの惑星は“重い”のだから)、「執」というものを削ぎ落とすことに努めてきた。烈火である必要はほとんどない。確かな熾火であることは幸いへ歩く原動力になる。静かな平安の心は力強い洗練の基だ。

昔の自分がどうだったか振り返ると、本当に自分自身なのかと思ってしまう。でも確かに、ひとつながりの自分だ。

君という星にであったことは、私が自分自身になるのを加速してくれている。感謝を伝えるには言葉では足りないくらい。感謝は愛の、側面のひとつ。

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