郡司

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明日世界が終わるなら

終末の光景、いちばん為したいこと、ギャグ、そして明日へ続く希望を置いておく心。一通りあるから、じゃあ私は無粋を。勿論、「明日世界が終わるなら、どうする?」という趣旨のお題であることは了解している。私は「終わる世界」をどうしてもイメージできないから、ひねくれ線で。

昔、予知夢を見る人が居た。ある日、その人が「世界が終わる予知夢」を見た。年月日までくっきりと、リアルに過ぎるものだったため、その人は「世界が終わる」と訴えてまわった。さて、まさにその日付の日になって、世界は終わることなく、その人は亡くなった。確かに、その人の「(個人的な)世界」は終わった。実話だ。

いつだったか年は忘れたが、「11月21日でマヤ暦が途切れているから、それは世界の終わりを示している」という、なんだか昔懐かしい種類の話があったが、ご存知の通り終わってない。マヤ暦にしても、ノストラダムスにしても、「世界が終わるぜ。滅亡だ!」という明言が無い。なんとなく解釈されて、そこからなんとなく予想されて、さらに尾鰭が付いて、あたかも決定事項であるかのように滅亡とか終末とか、ある種の「祭」が空気の中を練り歩く。

さて、明日に終末が置かれたら、多くの人が「間に合おう」とするんだろうなと思う。自分の中にあるけど未だ顕していない「自分の愛」に間に合おうとする。たぶん。

なら終末があるかどうかなんて関係なく出しとけ、出さないことがより良い愛のあり方ならこの限りじゃないぞ…と、考えてみる。私の頭にブーメランが刺さっていることは、まあ置いといて。

愛を表すために具体的にできることって、きっと日常のなかにもたくさんある。そしていちばん得意な土俵は、大抵の人が「日常のなか」だ。日常で表現される愛は、わかりやすく、差し出しやすく、受け取りやすく、温かさが間近だ。…日常、すごいな。




5/7/2024, 6:28:54 AM