郡司

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3/5/2024, 1:21:53 PM

たまには、ドライブに出たい。

田舎の良いところでもあるが、滅多に混雑にも出会わない。まあ、混んでいそうな場所とルートを避けるからというのもあるけれど。

私の街からは、海でも山でも、あるいは丘陵地でも、車で気軽に行ける。何処も似たような所要時間だ。

上の子どもが幼児だった頃、私は面白くないことが積み重なると、「5分だけ家出するよッ!」と子どもを連れて出かけた。移動時間は家出に含めない。だから目的地に着いて5分だけ滞在して戻る。それでも総時間はせいぜい1時間半程度。要は運転してストレス解消だ。安全運転だ、心配無用。子どもも乗せてるし。

新車購入は2回したが、いちばん重要視したのは「運転して楽しいかどうか」だった。若い時は身軽だったなぁ…。

免許をとって最初の車は、父が余していたラリー仕様車だった。ドッカンターボ・自動車高調節、でっかいインタークーラーが最前部についていた。とても楽しい車で、相応にやんちゃもした。ラリー車らしくね。いつもボンネットに猫の足跡がついていたけど、それもチャームみたいなものだ。実際、なるべく洗わないで猫の足形をお守りにしていた。山中の崖道でカウンターをちゃんと当て、ナビもケータイも普及してない時代に自分がどこにいるのかわからなくなった林道で、時刻と太陽の位置と自車の走行記憶で正しく帰還する選択ができた。その時は燃料ゲージに残量警告ランプが点灯してたから、シャレにならないピンチな状況だった。猫の足跡おすすめである。

海沿いの道をひたすら、白い風力発電プロペラが回る青空の下を。鹿の動向に注意をはらう峠道の紅葉のあいだを。人っ子ひとりいない、地平と空ばかりの見える農道の丘のまっすぐな道を。ウィンドウ全開で走るのが心地よい季節に、またドライブしたい。認知能力と反射神経があまり衰えないうちに。

しかし燃料が高値だぞなもし。むぅん…

3/5/2024, 4:05:04 AM

もふもふ。
ぽよぽよ。
ふかふか。
のほほん。

わが家にはたくさん、ぬいぐるみがある。ほとんど子どものものなんだが、圧倒的に猫型が多い。子どもが寝るときに使っている着ぐるみは招き猫だ。猫ねこ猫ねこ猫まみれ。下の子どもは猫が好きだ。

子どもが学校の行事に役割を得て、家でも練習したのだが、そのさい「練習相手」としてそのぬいぐるみ達を子どもが持ち出してきた。大勢の前で演説を打つから、ぬいぐるみ達をギャラリーに見立てるんだと。そして、練習に付き合え、と。

そうか、じゃあこの「ギャラリー達」を小学生ぽく振る舞わせればいいんだな、と、上の子どもと私はそのようにした………ら、練習が進まない。我ら「小学生」が演説者をあさってに、もきゃもきゃ遊んで、「先生に怒られるフラグ」を立てるからだ。もちろん、まじめなシミュレーションとして。

下の子どもは言った。「今の小学生はちゃんと静かに聞くんだよ。そんなふうじゃないよ」…えっ、そうなの? マジ? 演説者ガン見されるの? 目に見えない「何かの矢印」がたくさん静かに飛んでくるの? そうか、じゃあ静粛にガン見の圧を出そう。

練習は首尾良くできたようだ。大好きなぬいぐるみは、「変な迫力のある姉」と「ちょっとアレなドスがきくママ」が立ち上らせる「何かの矢印」の中でも、落ち着いた自己評価と素早い試行と改善出力をするためのバランサーになってくれたらしい。一度、自分自身で工夫した結果に会心の出来を経験できれば、それが自信の種のひとつになる。

翌日、学校から帰って来た子どもは、先生の指摘した箇所をクリアできたと、開口一番に教えてくれた。

3/3/2024, 1:13:39 PM

今日がひな祭りだということを忘れていた。お隣のおばあちゃんから「今日はひな祭りだから」と、お赤飯を頂くまで。まあっ、ありがとうございます、と受け取りながら頭の隅っこで財布の中と時間を勘案する。ヤバい、何も準備してない。私は日が暮れてから、慌てて買い物に走った。

ひな祭りはよく知られた節句だから(…だよね?)、明日子どもが学校から帰って来てからぶーたれられると困る。

お雛様に厄を祓ってもらい、人生の幸福を祈る。現代のひな祭りは、ふんわりとそんな感じか。伝統に則ってしっかりと「桃の節句」を行われるおうちもあろう。そういう場所には特有の清々しさがあるような気がする。そして、そのようなおうちの女性たちは、すごくしっかりしている印象がある。

今の時勢にひな祭りの意義はどうなんだ、という向きもあるかもしれないが、つまるところ、「どうか幸せであるように」というシンプルなねがいが核心だ。子ども時代の思い出にも何か良いものが残るかもしれないし、彩りのある記憶はほんの少しと言えど心の力になるかもしれない。

えっ、それでお前んちのひな祭りはどうしたんだと?
お隣のおばあちゃんから頂いたお赤飯、バラ刺身でちらし寿司、ホタルイカの酢味噌和え、はま吸い、苺…で何とかなった。最近のスーパーの工夫には頭が下がる。ちらし寿司用のカット刺身セットや、ボイル済みホタルイカ。いちばん手のかかる工程や下処理をかなり減らせる仕様で並べてくれているのだ。そのぶん値段が上がるのでいつもこのテが使えるわけじゃないが、ともあれ今日は助かった。感謝だ。

3/3/2024, 1:59:21 AM

「今は君に預けるしかない…」と、その者は言った。
「とも綱はおぬしがしっかり結んでおけ。そればかりは私ではどうにもならん」と、私は言った。

壊れ壊れて、また壊れるばかりだった少女を預かっている。どんなに壊れても、「死ねば楽になる」などという妄想も木っ端微塵になるところから、私のところに預けられた。

私はこの少女に「希望を持て」と言わない。
彼女が「消えたい。それか砂になりたい」と言ったときは、「消えることはできない。砂はただの擬態だ。何もなくならない」と言った。

私に彼女を預けた者は「進んでるのかな、進めるのかな」と、辛そうに俯いていた。私は「あの子がここに来たときと今の違いを見ろ。心配はわかるが、“つぎの段”の無い者は何処にも居らぬ。…今はおぬしの目前の段をゆけ」と言った。

彼女は自分の選択の数々を怒りで苛んでいた。
私は言った。「それらは全て、生きるための選択だ。ひたすらにただ、がんばったのさ。…がんばったろう?」と。彼女は数瞬、記憶を辿るように瞳をくるくるしてから言った。
「うん、がんばったよ。私がんばった」

最も重要な“希望のたね”のもとへ、彼女をたどり着かせることには成功した。今後はこれが彼女の“基準点”として活在する。まだまだ長丁場だが…

3/1/2024, 2:24:15 PM

欲望? 最初に断っておこう。文章長いぞ。自分の投稿の過去文を一部引っ張って来てる。欲望に関しては誤解が多い上に、欲望が「強い力」である割には、曖昧に扱われているからだ。まず「動機」と「欲望」は別物だが、ほぼ区別されないまま認識されていることが多いようでもある。動機と欲望が愛と思いやりの上に合致しているとき、人間は「生まれながらの凄さ」を発揮する。しかもそれは清しく温かく、力強い。欲望は大切な力のひとつだ。発揮する方向や使い方を間違えないように、注意深くいることは、きっと役に立つ。…まあ、関心も縁なんだけどね。
「幸せ」のお題のとき、欲について書いた。ここに持って来てみる。↓


人間にはいくつかの欲やねがいがあるという。諸説ある。
役に立ちたい、認められたい、愛したい、愛されたい、生きていたい。これは「肯定性」に関する心のねがいと言える。
眼耳鼻舌身で五根とかもある。解釈はいくつかあるようだが、心に関するものと身体に関するものとがある。肉体を持つ以上、当然のものとして食欲、睡眠欲。物理と精神の間にありそうな色欲と財欲と名誉欲。食欲と睡眠欲は生きものとして生存するためのものであり、なんなら色欲だって生きものが持ち合わせている必須性を含んでいる。財欲と名誉欲は両方とも、その底流に本当のねがいを隠している。

食べて美味しいのは幸せだが食べ過ぎれば苦しいし、質の良い眠りは元気になるけど眠り過ぎると疲れる。性の表現は心と意図の方向が違えば幸福から地獄まで顕す強力な諸刃の剣だ。財は生活の安心になるが財があり過ぎればイヤな経験をしやすいし、名誉は自己肯定を支えてくれるが名誉に囚われれば自由が遠ざかる。つまるところ、欲に執せず自分にちょうど良いバランス点に居ることが「この世にある幸せ」に触れるありようなのだろう。物理的身体を持つ人間であるうちは、欲がまったく無いという状態は、無力ですらある。受け取れないなら喜べない。望むものが無いなら前に進むこともできない。「欲を滅せば」悟りに至る? 何のために悟るのか?
釈迦牟尼は不幸なんかじゃなかったはずだ。


抜粋ここまで。↑

「欲望」という言葉にあまり良くないイメージを持つ人はたぶん少なくないのだろう。もしかして仏教で言う「煩悩」という言葉みたいに、なんだか違う「イメージ的なズレ」があるのかもしれない。「欲し望む」「煩い悩む」は、人間なら必ずというほど出会うものだし、それ自体が悪いなどということは絶対ない。

いつからよろしくないイメージが持たれたのかはわからないが、はたして「欲望」のしわざかどうか、ある意味で典型的な人間社会のものを眺めてみる。

軽薄な動機・低俗な手段・残酷な行為がセットになって、物理的あるいは立場的に「自分より強力じゃない」、つまり「こいつを虐めたって自分の脅威にはならない」などと品定めした相手を「侵害」する。はっきり言って“仕置きが必要”な愚行だ。

さて、このパターンは「欲望」なのだろうか?
むしろ、それを後押ししているのは、「自分は無価値」「自分は無力」といった「否定的自己認識」なのではなかろうか? 特に無力感は、抑圧そのものとして心に作用する。無力感にともなう感情は、「前向きな考えを見つけて行動選択に昇華」されないままだと、いつか「破裂」する。それは「侵害行為」というかたちを取ってしまうことも多いのじゃないか?

「欲し望む」と「煩い悩む」と「破れ裂ける」、どれも同じものなんかではない。

心が「破れ裂ける」ことの無いように、
「煩い悩む」ところから成長できるように、
自分の内へ本当の力を「欲し望む」ことで、
ねがいを叶える推進力に手を伸ばせる。
その果実はよきものだ、多分。

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