郡司

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欲望? 最初に断っておこう。文章長いぞ。自分の投稿の過去文を一部引っ張って来てる。欲望に関しては誤解が多い上に、欲望が「強い力」である割には、曖昧に扱われているからだ。まず「動機」と「欲望」は別物だが、ほぼ区別されないまま認識されていることが多いようでもある。動機と欲望が愛と思いやりの上に合致しているとき、人間は「生まれながらの凄さ」を発揮する。しかもそれは清しく温かく、力強い。欲望は大切な力のひとつだ。発揮する方向や使い方を間違えないように、注意深くいることは、きっと役に立つ。…まあ、関心も縁なんだけどね。
「幸せ」のお題のとき、欲について書いた。ここに持って来てみる。↓


人間にはいくつかの欲やねがいがあるという。諸説ある。
役に立ちたい、認められたい、愛したい、愛されたい、生きていたい。これは「肯定性」に関する心のねがいと言える。
眼耳鼻舌身で五根とかもある。解釈はいくつかあるようだが、心に関するものと身体に関するものとがある。肉体を持つ以上、当然のものとして食欲、睡眠欲。物理と精神の間にありそうな色欲と財欲と名誉欲。食欲と睡眠欲は生きものとして生存するためのものであり、なんなら色欲だって生きものが持ち合わせている必須性を含んでいる。財欲と名誉欲は両方とも、その底流に本当のねがいを隠している。

食べて美味しいのは幸せだが食べ過ぎれば苦しいし、質の良い眠りは元気になるけど眠り過ぎると疲れる。性の表現は心と意図の方向が違えば幸福から地獄まで顕す強力な諸刃の剣だ。財は生活の安心になるが財があり過ぎればイヤな経験をしやすいし、名誉は自己肯定を支えてくれるが名誉に囚われれば自由が遠ざかる。つまるところ、欲に執せず自分にちょうど良いバランス点に居ることが「この世にある幸せ」に触れるありようなのだろう。物理的身体を持つ人間であるうちは、欲がまったく無いという状態は、無力ですらある。受け取れないなら喜べない。望むものが無いなら前に進むこともできない。「欲を滅せば」悟りに至る? 何のために悟るのか?
釈迦牟尼は不幸なんかじゃなかったはずだ。


抜粋ここまで。↑

「欲望」という言葉にあまり良くないイメージを持つ人はたぶん少なくないのだろう。もしかして仏教で言う「煩悩」という言葉みたいに、なんだか違う「イメージ的なズレ」があるのかもしれない。「欲し望む」「煩い悩む」は、人間なら必ずというほど出会うものだし、それ自体が悪いなどということは絶対ない。

いつからよろしくないイメージが持たれたのかはわからないが、はたして「欲望」のしわざかどうか、ある意味で典型的な人間社会のものを眺めてみる。

軽薄な動機・低俗な手段・残酷な行為がセットになって、物理的あるいは立場的に「自分より強力じゃない」、つまり「こいつを虐めたって自分の脅威にはならない」などと品定めした相手を「侵害」する。はっきり言って“仕置きが必要”な愚行だ。

さて、このパターンは「欲望」なのだろうか?
むしろ、それを後押ししているのは、「自分は無価値」「自分は無力」といった「否定的自己認識」なのではなかろうか? 特に無力感は、抑圧そのものとして心に作用する。無力感にともなう感情は、「前向きな考えを見つけて行動選択に昇華」されないままだと、いつか「破裂」する。それは「侵害行為」というかたちを取ってしまうことも多いのじゃないか?

「欲し望む」と「煩い悩む」と「破れ裂ける」、どれも同じものなんかではない。

心が「破れ裂ける」ことの無いように、
「煩い悩む」ところから成長できるように、
自分の内へ本当の力を「欲し望む」ことで、
ねがいを叶える推進力に手を伸ばせる。
その果実はよきものだ、多分。

3/1/2024, 2:24:15 PM