もう30年ほど列車には乗ってない。その頃、地元のJRはまだディーゼル機関車で客車を引いていたが、自動車免許を取得以降、私の列車の記憶は更新されていない。到着を知らせるオルゴール曲は「鉄道唱歌」だったと思う。現在はどうなんだろう?
さて、私には列車に乗って移動するということが根付いてないので、「自分が乗る列車」よりも機関車の方がいろいろと記憶に色濃く残っている。
最も古い記憶は、私が1歳のときのもので、地元の機関区の機関庫の中だ。母方の祖父が機関区で仕事をしていた。夕方に両親に連れられて輪転機の奥の機関庫へ行くと、大きくもなく明るくもない裸電球がぽつぽつと灯っている中に、真っ黒い蒸気機関車がズラズラと並んでいて、なかには減圧のために勢いよく蒸気を吹き出している機関車もあり、1歳のチビだった私には、本当にこわい場所だった。暗いし、まっくろな機関車はものすごく迫力があったし、「ブシュー」という蒸気音もすごく驚かされた。こうしてくっきりと記憶に残るほど、「圧の高い」場所だったのだ。
こう書いているうちに、列車に乗ったなかで印象強いものを思い出した。修学旅行で北斗星に乗ったとき、一番上の場所を選んでしまって、夜通し眠れなかった。当時の寝台列車「北斗星」は、現在のようなコンパートメントではなく、中央に通路があって、その両側が寝台兼席だった。壁は無く、通路と寝台を区切るのはカーテンのみ。三段分割になっていて、下段が最も高さが確保されていた。中段は下段より高さが少なく、一番上に至っては人ひとりが横になるに足りる高さしかない。しかも車両の屋根外郭に沿って壁側(つまり窓の直上)は丸く詰まっている。まさに「隙間に潜り込んでなんとか眠る」仕様だ。この状態で眠れるなんて、はっきり言って「猛者」だと思う。
北斗星は上野駅0番ホームに入った。現在はもう使われていない。修学旅行だから学校のみんなと一緒に降り立ったが、私達はほぼ一様にテンションが下がって静かになってしまった。映画「火垂るの墓」に描かれたそのままの建物だったからだ。
上野駅0番線は、いちばん端の線路で、線路横の低い柵に沿って道があり、道の向こうはすぐ公園の森だった。戦後すぐの頃、0番線構内にも戦災孤児がたくさん、雨風をしのぐために入り込んでいた。実際の映像も目にしたことがある。
1946年に生まれた私の母は、東京で大学に通っていたのだが、母にとって上野0番線は「故郷へ続く線路」だったそうだ。“ここから列車に乗れば、家に帰れるんだ”という想いのする場所だと、「火垂るの墓」を観ながら言っていた。
遠くの街へ……これまでに訪れたことのある、いちばん遠い街を思い出してみる。
伊勢だ。伊勢神宮。街じゃないけどまあ良い。
当時の私はまだ就学前の年齢だったが、伊勢の記憶は鮮やかに残っている部分が多い。最も鮮明で、かつ大好きな記憶は、五十鈴川である。
だいたい私は、たいていの場所の水が怖かった。長じてみると、何故「怖い」と感じていたのかは解るようになったが、幼児のときは、“理由はわからないけどここの水は怖い”ところがほとんどだったから、五十鈴川の「まったく怖くない、あかるく澄みきった水の流れ」には本当に嬉しい新しさを感じたのだ。しかも当時、五十鈴川には錦鯉が放されていて、私は五十鈴川の縁にしゃがみ、水の中を飽きずにのぞき込んでいた…ら、母が何か叫びながらこちらへ走ってきて、あっという間に私の襟首を掴んで川から離してしまった。
私はとても残念な気持ちだったが、今考えると当然だった。常識的に、幼児の体格で川に落ちれば危ないと判断する。…今もって五十鈴川でそんな危険があるとは思えないというのが私自身の本音だけれども…でも、そんな私も自分の子どもが同じことをしていたら、母と同じようにするだろう。
友人が昨年の夏に伊勢詣りに行ってきた。今の五十鈴川には錦鯉は居ないと言っていた。
現実逃避か。さて、「どの現実」から逃避?
これまでに長らく、「現実とはコレ。この現実ひとつだけ。あとは妄想か幻妄。くだらないユメ見んのもいいかげんにしなさい、現実は甘くないんだからね」という「観」が引き続いてきた。“現実は全員がもれなく同一に認識し、決して揺るがぬ事実であり真実”…という考えだ。
ところが、量子を扱う科学者達が、こんなことを言い出した。
「なんか実験(観測)する奴が変わると結果(観測される事象展開)も変わるぞ。公正な実験でだ」と。
紛う方なきこの現実でのことだ。
いわゆるところの「現実逃避」は私もよくやっていた。よくやっていたからわかる。逃避しても根本課題がなくならない。それどころかクルシイ時間期間がダラダラと間延びするのだ。私はドMじゃないから、早く楽になりたい。早く楽になるには、課題に取っ組んでクリアするしかない。正面突破だッ!かかって来いやゴルァー!!
もちろん、「今はそれムリ。戦略的撤退するんだもん」という選択が最良のときもある。そんなとき、とりあえず逃げることを実行できたなら「よくやった自分。自分で自分を守ることができたぞ」と、自分を褒めて労るべきだ。それはしばしば、“生きるためにできること”を尽くす行動に他ならないからだ。「百聞一計逃げるに如かず」とかいう文言を何かで見たが、これくらいしたたかでもよきかな、だ。
ところで、「現実逃避(課題の先延ばし)ができる現実という場所」は、どうやら「この現実」だけらしい。近くにある「他の現実」では“問答無用の容赦なし”の傾向があるようにも見える。この現実は「まだ優しいところ」みたいだ。
君は今、あなたは今、あの人は今、みんなは今…
私は今、「生死の閾」が無くなった自分の道に居ます。でもちゃんと、みんなと同じであろう「時空間」の中に居るよ、今はね。どこまで進めるか、まだ見えないけど、自分の精いっぱい行けるとこまで、がんばろうと思う。目的地は「行けるとこまで」。自分で「よくがんばったなぁ」って心の底から実感できることも、大事な目標のひとつ。
あなたは今、きっと忙しくしているのでしょう。自分の来し方を振り返れば、あなたを見つけることができたのは、とても大きな僥倖です。私の、前へ進む心を、あなたの存在はいつも励ましてくれています。肉体のあるときも、無いときも、その旅路が最良のものでありますように。私の切なるねがいです。
もの憂げな空、ですと?
…さあ、行きますよ。
そんな「シケたツラの空」なんて見たことない。
見える空に気分を投影する表現はたくさんあるし、それ自体は見る人それぞれの感覚の自由だと考える。空を言い表すときにどれほど「修飾」を付けようと、楽しく感じられるならそれが良いと思う。グリーンゲイブルズのアンなら、あらゆるものごとを荘厳に修飾するだろう。
じゃあ自分はそうするかと言うと、しない…。
自分の目でどう見えるか、それによって自分の気持ちはどう、とは表現するけれど、同意は求めない。個人的なものだからだ。
空自体が「もの憂げ」に見えたことが無いんだが、晴れた空をそのまま「晴れやか」だと感じることはたくさんある。子供の頃は晴れた空を見て何故か寂しい気持ちになったりした。自分の気持ちが悲し寂しの夕方に夕陽がほんのり温かくて(赤外線)、更に哀しくなったこともある。ぜんぶ自分自身の心だ。自分の胸の内が、それらの在処だった。
空は空だ。たまに「励ましが降ってくる」けれど、中途半端に「もの憂げ」なところを見たことはない。