郡司

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2/25/2024, 12:43:48 AM

小さな命、よく聞く言葉だ。テレビや新聞などのメディアがこの表現を赤子に当てはめることを盛んにやっていた時期もあった記憶がある。

私の子ども達が赤子だった頃や乳幼児期、「小さい」と言って間違いない頃を思い出してみる。…うん、小さいのは身体だけだ。その存在は間違いなく大きい。長女が生まれたとき、私は「人生ってやつも悪くないかもしれないな」と、自分が生まれて初めて思ったのだ。

「かたちの小ささ」を「命の小ささ」と同一視すること自体には、良い面も悪い面もあるとは思う。

「かたちが大きい」者は「かたちが小さい」者にとって「物理的圧倒」がある。世間で騒がれる痛ましい出来事の多くに「物理的圧倒」を悪用したケースは実に多い。「かたちが大きい」だけで、「中身は小さい」者達だ。これは「器ってやつが~」という意味ではなく、中身に成熟がない、という意味だ。

「物理的圧倒」があるぶん、「かたちの小さい」者に思いやりを発揮する「かたちの大きい」者も、もちろんたくさんいる。むしろ生物的にはそれが必要だ。多くの人間も、動物達もこれを自然に行動する。

野生動物は小さい生きものを捕食するじゃないか、という声も昔からよく聞く。人間が狼を恐れて絶滅させてしまった北海道の生態系に及んだ影響は、現在も終わってない。

人間にしても、動物にしても、その場限りの感覚で「かわいそうだから」とか、逆に「邪魔だから、怖いから」的な動機のもとに行動してしまうのは、「見誤る」危険がある。命は大きい。決して小さくない。けど、繊細でもある命と命の間を繋ぐには、思いやりという「ぬくもり」が、“最大の力”として必要だ。

2/24/2024, 3:40:14 AM

Love you…状況で違う意味合いになる表現だ。親愛の気持ちと言えば確かにそうだけど、一緒に居る恋人同士や、家族の中での言葉。その場の状況を前提として巻き込んだ上で発される口語表現だから、文章には向いてないと思われる。

日本人の日本語による同系ニュアンスの表現だと、「大好き」なのかな…? 次女がよく言ってくれる。「ママ、大好きー」と。かなり栄養になってる。長女は…うん、おねえさんになったね…

それにしても、英語だと提示情報量が違う。文化の違いなのだろうけど、日本語と英語では一文に含み示されるものの量が違うのだ。英語の構造はとても物理的な印象だ。

以前にも「大好き、で良いのでは?」みたいなことを書いた。お題の文言に比べてほわっとしている印象があるけれど、親しい間柄ではしっかりと「心の活力源」になるのはウケアイだ。

2/22/2024, 1:19:11 PM

何かを太陽に例えるの?

恒星の太陽。地球に対する作用は、その距離的近さゆえに遠い恒星達とは一線を画するものだ。遠くにある恒星は夜空に小さく光る「お星さま」。

恒星である太陽は莫大なエネルギーを放射している。地球の方は大気やオゾン層という保護エリアが必要なくらいだ。でもその恩恵は言うまでもない。太陽が活動を止めたりしたら生存できる生きものは少ないだろう(クマムシとか?)。

地球で生きてる多くのものにとって太陽は「前提となる生存条件第一位」。これに例えるに相当なもの………うーん、何だろう。大づかみに考えると、「生まれて間もない赤子にとって親もしくは親の如く世話する者」のような。生まれてから1ヶ月の間は特に、ほとんどすべての時間も手間も捧げて世話する誰かが居ないと、赤子は死んでしまう。あるいは、発育上に障りが出る。

今生きている人はすべて、そういう誰かが居たから生きている。「太陽のように、生きることを支えてくれた誰か」が、必ず居る。“憶えてないから知らねぇよ”じゃないぞ。居たんだ。

2/21/2024, 3:08:41 PM

いつの何が、「0からの」だったか、わからない。

けど、長年かかってひとつの「課題」をクリア・解放する度に、私は「0地点」に立った。これは理屈じゃなく感覚的な実感だ。太陽の光が強く輝く大きな風の中、周りの心象風景はいつも「荒野」ばかりなのだが、光の中にも風の中にも希望が浸透しているような荒野。草も生えてない。何故「荒野」なのかはわからない。必要があれば理由を理解する時があるだろう。

心象に顕れる度に荒野の何かが変わっている。最初の荒野より直近の荒野の方が「息ができる」気がする。何と言うか、風も光も生命感が増していて、「深く澄む」ような感じだ。

今日のこれを書き始めてから、直近の「0地点」に入ってみた。印象が鮮やかだから、すぐその荒野に立てる。悪くない場所だ。光をはらんだ風はよけいなものを私から洗い流してゆく。太陽の光は前方から夜明けみたいに射してきて、私に浸透する。今しばらく、ここに居てみよう…

2/20/2024, 1:34:20 PM

同情、というものはしばしば、本来意味する「思いやりをもって寄り添う」のとは全く別物の動機のために「仮面」のように利用される「ふるまい」として現れる。

心が温まり、純然と励ましを受け取れる「同情」は、言葉通りのまっすぐな、優しさの表れたものだと思う。
反対に、侮辱を感じる「同情」もある。
違いはどこで感じるのか、考えたことがある。随分昔のことだ。自分の経験を振り返ると、当時の私の、怒りの反応ときたらまるで瞬間湯沸器のようだった。私はいったい、その「同情」に何を感じたのか。ちょっと言葉回しが古いが、「汝、弱き者よ。憐れみを垂れてやろう」という、「相手の心理的な態度と、相手が自分に対してとろうとしている立ち位置の観」とでも言おうか。

居なくなれ、私を貶める行為に依存しようとする者よ。私は汝の自己価値感の不足を補う部品などではない。絶対に。私の誇りを踏みつけるな。…という怒りだった。

こういう状況のたちの悪いところは、正直言って「しんどい苦境にある」ときに出くわすことだろう。もっとアレな場合、相手の考えのかたちの中に「かわいそうな人は憐れんであげるのが、善い行い」という、「悪意なきテンプレートと思考停止」が鎮座ましましていたりする。まったく悪意が無いから、スルーするしかない。

もしかしたら、こだわり無くそういった「人間関係の偏り」を自分の良いように転じる「達人」も居るのかもしれない。それはそれで才能だ。

でも、私は粗忽者なので「きーっ」となるのだ…

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