小さな命、よく聞く言葉だ。テレビや新聞などのメディアがこの表現を赤子に当てはめることを盛んにやっていた時期もあった記憶がある。
私の子ども達が赤子だった頃や乳幼児期、「小さい」と言って間違いない頃を思い出してみる。…うん、小さいのは身体だけだ。その存在は間違いなく大きい。長女が生まれたとき、私は「人生ってやつも悪くないかもしれないな」と、自分が生まれて初めて思ったのだ。
「かたちの小ささ」を「命の小ささ」と同一視すること自体には、良い面も悪い面もあるとは思う。
「かたちが大きい」者は「かたちが小さい」者にとって「物理的圧倒」がある。世間で騒がれる痛ましい出来事の多くに「物理的圧倒」を悪用したケースは実に多い。「かたちが大きい」だけで、「中身は小さい」者達だ。これは「器ってやつが~」という意味ではなく、中身に成熟がない、という意味だ。
「物理的圧倒」があるぶん、「かたちの小さい」者に思いやりを発揮する「かたちの大きい」者も、もちろんたくさんいる。むしろ生物的にはそれが必要だ。多くの人間も、動物達もこれを自然に行動する。
野生動物は小さい生きものを捕食するじゃないか、という声も昔からよく聞く。人間が狼を恐れて絶滅させてしまった北海道の生態系に及んだ影響は、現在も終わってない。
人間にしても、動物にしても、その場限りの感覚で「かわいそうだから」とか、逆に「邪魔だから、怖いから」的な動機のもとに行動してしまうのは、「見誤る」危険がある。命は大きい。決して小さくない。けど、繊細でもある命と命の間を繋ぐには、思いやりという「ぬくもり」が、“最大の力”として必要だ。
2/25/2024, 12:43:48 AM