郡司

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同情、というものはしばしば、本来意味する「思いやりをもって寄り添う」のとは全く別物の動機のために「仮面」のように利用される「ふるまい」として現れる。

心が温まり、純然と励ましを受け取れる「同情」は、言葉通りのまっすぐな、優しさの表れたものだと思う。
反対に、侮辱を感じる「同情」もある。
違いはどこで感じるのか、考えたことがある。随分昔のことだ。自分の経験を振り返ると、当時の私の、怒りの反応ときたらまるで瞬間湯沸器のようだった。私はいったい、その「同情」に何を感じたのか。ちょっと言葉回しが古いが、「汝、弱き者よ。憐れみを垂れてやろう」という、「相手の心理的な態度と、相手が自分に対してとろうとしている立ち位置の観」とでも言おうか。

居なくなれ、私を貶める行為に依存しようとする者よ。私は汝の自己価値感の不足を補う部品などではない。絶対に。私の誇りを踏みつけるな。…という怒りだった。

こういう状況のたちの悪いところは、正直言って「しんどい苦境にある」ときに出くわすことだろう。もっとアレな場合、相手の考えのかたちの中に「かわいそうな人は憐れんであげるのが、善い行い」という、「悪意なきテンプレートと思考停止」が鎮座ましましていたりする。まったく悪意が無いから、スルーするしかない。

もしかしたら、こだわり無くそういった「人間関係の偏り」を自分の良いように転じる「達人」も居るのかもしれない。それはそれで才能だ。

でも、私は粗忽者なので「きーっ」となるのだ…

2/20/2024, 1:34:20 PM