郡司

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2/19/2024, 12:54:36 PM

枯葉。私の住む街には今はほとんど見当たらない。すべて雪の下だ。秋に地面に落ち、冬の雪の下に埋もれ、雪解けの頃はまだその姿を保っている。春の暖気が来てから、少しずつ分解者によって姿を消してゆく。…山の中ならね。市街地では、雪が来る前にブロアーで集めたり、箒で寄せ集めたりして、姿を消してしまう。アスファルトの上では、いつまで経っても枯葉は分解者に出会えない。

さて、そのような環境の中で育った私は、あまり枯葉の風情がわからない。なので、今向かいつつある春のものを(まだ早いけど)思ってみる。佐保姫だ。

佐保姫が来ると桜が咲く、と、聞いたことがある。秋なら秋津姫、春は佐保姫だと。桜が咲いている間は佐保姫が居るそうだ。日本列島に佐保姫が滞在してだんだんに北へ進むのだと。

日本で最も遅く桜が咲くのは、大雪山の桜だそうだ。平均的に、7月に開花する。3月から7月まで、5ヶ月近くをかけて佐保姫の幸いは日本にあるということになる。そして秋には、北から秋津姫がやって来られるから、桜の葉が枯れるのはいちばん先だ。

しかし正直なところ、私には桜の枯葉もなかなかイメージしにくい。スーパーに行けば、年中「桜餅」が並んでいて、塩漬けの桜の葉が巻いてある。枯れてないどころか、美味しく食べられる。

やっぱり私の街の中では、枯葉の風情はわからない。

2/18/2024, 1:21:58 PM

今日は祖母の誕生日だ。満年齢98歳、つまり今日から99年目を生き始める。最近の、気温の大きく乱高下する気候には皆疲れているが、祖母も例外ではない。眠り込む時間が増えている。

人間の自我意識領域は、眠りとともに意識の深淵に沈むそうだ。目覚めるとき、昨日とは別の自我が、新しく生まれて「咲く」。昨日の自我から今日の自我へ、「自我領域の仕事」は完璧に引き継がれ、人間は今日の目覚めで自分自身の「現実をハンドリングする自己意識」が「全く新しく生まれた」ことに気づかない。“人間は毎日新しく生まれる”という表現はたまに見かけるが、これは例えじゃなくガチの事実だ。

今日にさよなら、今日の自我ともさよなら。
目覚めておはよう、新しく花が咲くように新しく生まれた今日の自我と協力して「存在が表現する」。

人間は「古びてゆく」暇などない。毎日新しく生まれるのだから。

2/18/2024, 1:08:47 AM

お気に入り

ネイビーのシャツ。普通の形。メンタルが引き締まる。

自分で編んで作ったブレスレット。菫青石と紅玉と、月長石と白い曹灰長石、青い閃晶石に、水色の蛍石も一粒、吊り下げで付けてある。菫青石はもう戦友と言って良い。そして、だいぶ内傷が増えた。

ダイソーで買った猫形抱き枕。三毛猫デザインのポヨポヨだ。最近、中綿が少しずつヘタレ気味。

なんだか、私の「お気に入り」は、消耗してゆくものばかりだな…大事にしよう。

当たり前と言えば当たり前なんだろうけれど、おもに子ども達のものごとに埋もれて過ごしているぶん、「お気に入り」を並べる「スペース」を自分の中にしっかりと持っているわけではないみたいだ。

自分の中のスペース、ちょっと見てみようか…


2/17/2024, 2:41:19 AM

誰よりも? 誰よりも、誰よりも…
むぅん、この比較の言いまわしには、子どもの頃から違和感があった。年取った今の感覚では、「誰よりも」という前段に「~の中では」などと「ローカルな集団の条件を提示」せずに使うことは無い。

実際、人間は個々のありようが違う。比較するならば「どの点に関して」比較するのかを示さなければ、「流れゆきて消える」ケムリのように「根無し草な考え」に終始してしまう感がある。

日本の昔話に、ねずみの娘をどこに嫁に出すかでひと悶着するものがある。誰よりも強いものへ嫁に出そうと、やれ太陽さんだ雨雲さんだ、やっぱり風さんだ、いやいや天気に揺らがぬ蔵さんだと続き、一周回って“やっぱりねずみだ”と落ち着く。

太陽さんは「雲にかかられちゃ照らせない」
雨雲さんは「風に吹かれちゃ居られない」
風さんは「どんなに吹こうが蔵は飛ばせない」
蔵さんは「ねずみに齧られちゃ穴があく」…という流れなんだが、さて、この理屈には抜け落ちてるものがある。
太陽さんが照らし、雨雲さんが雨を降らせ、風さんが太陽さんの光と雨雲さんの雨の巡りを起こさなければ、食べ物は生育できない。蔵を建てて食べ物を集める人間が居ると、ねずみは楽々と食べることができる…結局、生けるものとあらゆるものとが、みんなで「命をつなぐもの」を育て運んでいる。この中には「必要不可欠な者」ばかりで「誰よりも強い者」など、何処にも居ない。
まあ、昔話だから、この物語が語られ始めた頃は、そんな本質は「当然の常識」で、いちいち語る必要もなかったのかもしれない。

人間の社会システムも、この「巡り」が無いとたちまち瓦解する。みんな生きものだから。社会システムに疲れてしまうとき、人間は自然の中へ自分を置いてリフレッシュできたりもする。

この惑星での「総合性」の前では、「誰よりも」は幻想だ。

2/16/2024, 5:37:22 AM

興味深い実験の話を聞いたことがある。ある新年会の席の余興で、「一年後に叶っている自分の希望」を、参加者全員、小さな紙片に書いてもらい、“来年の新年会でまたこの紙をみんなで見てみる”ことにした。さて、一年後の新年会でまた余興としてそれを見たところ、実に八割以上の人が、「紙片のねがい」を叶えていたそうだ。気軽な余興、酒の入った酔っぱらい達が、概ね楽しく気軽に書いたものだ。紙に自分の希望や夢を書き出すこと自体が、「現実への最初の出力」であるのは確かだと思う。

「何かのテーマについて、未来の自分からメッセージを受け取ることができる」と、聞いたこともある。
たぶん、その「自分」は、「時間計測の先にある自分」ではない。正確に表現するなら、「今日の自分と同一自我」ではない。ただ、「存在は同一」だ。「存在」と「自我」は違う。自我は「存在の窓口」だ。

未来の自分であるなら、自我は今より洗練されている可能性が高い。人間は進む。“ぜんぜん進んでないし成長してない。自分の周りの心象風景だって変わらない”と思うかもしれないが、成長は螺旋で上昇するように進む。「またもや同じ風景」に見えても、「高さ」が違う。つまり、「未来の自分」とは、「現在よりも認識の俯瞰性が高い自己意識」とも言えそうだ。

人間は愛する生きものだ。異論は認めない。「愛をもって眺める深さが増している意識領域」が出してくるメッセージなら、力強い信頼性がある。なによりも、自分で自分を真にだますことはできないのだ。

さて、私も「未来の自分からのメッセージ」にアクセスしてみよう…
曰く、「生きる瞬々のどんな部分も、紛う方なき愛を以て抱きしめられるようになる。なに、心配すんな」と。それって10年後か?…
また曰く、「今更年限なんて必要かね」と。確かに。

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