次女が見ていた動画から、「エリーゼのために」の旋律で歌が聞こえてきた。学校のどこを覗いても見つからない自分宛てのチョコを必死とも言える勢いで探しまくる男子高校生達の心の叫びを、うまく歌にしていた。ご存知の方も居るかもしれない。勿論、笑いを呼ぶための歌として、ショートアニメに組み込まれている。
悲喜こもごもの青春はさておき、今日私はスーパーで売っている大袋のチョコレートをぽいぽいと口に放り込んで食べていた。もぐもぐ。青色申告とのたたかいはまだ完了していないから、糖分はマストアイテムだ。ブドウ糖タブレットはもう残り少ない。明日の午後には決着をつけるぞ。
聖バレンタインの言い伝え、ゴディバ夫人の逸話、ベルギーチョコレートの高名、いろいろあるけど、私の味覚は日本のフツーなチョコレートがいちばん美味しいと感じる。私の子どもの頃に、母方の大叔母が、遠くはるばるブラジルから訪ねて来られた。おみやげは現地のチョコレートだった。ブラジル移住を国が奨励したときに家族でブラジルに渡り、大きな農園の開墾と経営に成功したそうだ。「ブラジルのチョコレート」と聞いて、私は興味津々でひとかけらを頂いた。
そのチョコレートは甘かった。もう、ものすごく甘かった。「チョコレートのふりをした砂糖菓子」という感じだった。気候や生活環境や体質体格、さらに食文化の違いなどなどが、好まれるお菓子の甘さの違いになるのかもしれない。日本で好まれるお菓子の甘さは、海外の人が「ぜんぜん甘くない」と評することが少なくない。
バレンタインと言えばチョコレート、と、イメージはセットになっている。
しかし、だがしかし。私が「これはすごく美味しいな」と思うチョコレートは、どうしようもなく溶け易い。六花亭の、白い雪原の風紋を象った「ミルクのチョコレート」で、よくある「ホワイトチョコレート」とは一線を画する味だ。じわじわ美味しい。私は好きなのだ。でも、届けたいひとは遠くに居る。送って届いて、箱を開けたら雪原じゃなくて白い沼地…なんてことになったらかなしい。一度溶けてしまうと本来の口溶けが失せて、それが風味を損なってしまう。うん、妥協できない。
…なので、昨日書いた「小さな魔法の覚書」での贈りものなのだ。キャンディサイズ、ハート型。この一年間も、いろいろ出会うものごとから、「最良の本質」を掴めるように。いつも健康で、ちょっと不調になっても「健康優勢」であれるように。…なんだか神社のお守りみたい。でもこれが、私の思いつける「最高」なのよね、今のところ。
そういえば、「待っててね」という想いでいた記憶がほとんどない。子どもの保育園へいそいそと迎えに向かうときはいつも想っていたんだけど…
むしろ、「間に合わなくちゃ」という感覚の方が、圧倒的に多かった気がする。言うまでもないことかもしれないが、大事な物事に関するときばかりだ。
いつ頃からそんな感覚になったのか記憶の網を手繰ってみて、自分が20歳のときの、親友の急な逝去に思い至った。交通事故で、その死に伴って周りの人達に凄い勢いで波及していった心の衝撃や痛みの様相の中に私も巻き込まれた。厳密な意味で「単独事故」ではなかったことが、関わる人達の心曇る期間を長引かせていた。あまりに突然な親友との「死別」が、それからのち現在に至るまで、私のメンタリティや行動の基本方針に大きく影響を及ぼしているのは間違いなさそうだ。
その基本方針、言わば「努力目標」の目指すところは、以下のようなものだ。
自分が何を考えているのか、惜しみなく表現する…ただし、傷つけないことをだいじに。でも自分の至らなさを根絶できなくても、誤解があればそれを解く努力を忘れないようにする… 誰と「死別」しても後悔に沈まないように、自分にできる「良い表現」を尽くせるようにする…。つまるところ、私は「大好きな人たち」との間に育み、棺桶の向こうまでも抱きしめて行ける“こころの宝”が、いつも温もっていてくれることに執しているのだ。やっぱり私は強欲であるらしい。
強欲な私から、「小さな魔法の覚書」を一つ、プレゼント致そう。バレンタインだからね。これは誰でもできるし、あなたの「大好きな人」が、たとえ地球の裏側に居てもちゃんと届く。注意しなければならないことはひとつだけ。この魔法は、「純然たる祝福の想い」であることが、発動の絶対条件だ。「相手を自分の思うとおりにコントロールしたい」などと望むと、そもそも作用できない。ともあれ、楽しい気持ちで取りかかって下さいね。
魔法はイメージをとっかかりに生まれてはたらくと言われている。でもイメージ以前にある「意図」と「感情」が、「魔法が生まれる」原初地点であり、「イメージ」は作用ムーブメントの具体化を担う部分だ。私は今「魔法」などと表現しているが、これは現実事象の万般にわたる共通事項であり、このプロセスを経ないで出し抜けに顕現する事象は皆無だ。地球という場所では。意識的であろうが、“無意識的(つまり無自覚)”であろうが、皆、息をするように「魔法」を使っている。個人レベルと集団レベルがあるが、そこへの言及は今日の論旨から逸れてしまうので、またいつか。
さて、イメージ。
自分の左手に、銀に輝く光を持つ。炎のような光だ。その銀の炎に、空高くから綺羅星のような光が降り注ぐ。そのきらめきは一つひとつが純然な愛という生命だ。銀の炎をできるだけ美しく、澄んだ光にしてゆく。
左手はそのまま、今度は自分の右手に、明るい紫の光を持つ。色美しく澄んだ紫の炎だ。
両手それぞれに持っている二つの光の炎を、自分の胸の前で合わせ、ブレンドする。
ブレンド光を両手で「丸める」。おむすびみたいにイメージしても良いだろう。丸めた光を、自分がちょうど良く感じる大きさにする。
届けたい相手のところに、それが届く。細かな部分は想像力を働かせて、より良く自分らしく創造的に。
即時的に顕れるかどうかを気にしない。目に見える証明を求めない。このプロセスはイメージする傍から本当にエネルギーが組まれて動く。目玉に見えなくても、はたらく。応用が利くので、自由に楽しむことが大事だ。
伝えたいことを、誤解の無いように、確かに伝える…って、難しさを感じることが多々ある。
昔の私はそれ以前のところで「停止」してしまっていた。まず表現に充分な語彙を持っていなかった。今でも「ボキャブラリー豊富」とは言えない。
でも、たぶん、どんなに言葉や表現方法を尽くしても、「万人に同様の理解を、即時にもたらす」なんてことはできない。イエスやゴータマの考えや心も、長い長い年月とともに、「じわじわと」広がった。
自分自身の中に、確かに何かあるんだけど、その「何か」をちゃんとあらわすには、「展開ツール」がまだ揃ってない…というジレンマに両手をわきわきさせちゃうのはきっと私だけじゃない、はず。
だがしかし、その一方で、ものすごくシンプルな表現が、いちばん大事な「本質」を、たやすく、豊かに伝えてしまうのも事実なのだ。
なんだか、伝わる伝わらないも縁みたいな気がしてきた。
場所 「場」 フィールド 地点 事象の焦点
「この場所」はたくさんある、と考える…
正直、このお題は私には難しい感じがする。
随分遠く、長い時間で何処かに行っていたような感覚の眠りから覚めて、時計を確認すると30分しか経ってない。でも甚だしい疲労感で重い頭も身体も、時間経過感覚のズレに捕まってしまうことがたびたびある。いったい「どの場所」に行っていたのだろう。ロジカル記憶に残らないなら、まあそのたぐいの「場所」なんだろう。
さて、今現在の、この現実のこの場所の私には、目下のところ「のろい」がかかっている。術式の名前は「青色申告」だ。私は申告義務者ではない。昔からやってきた作業だから、わけわかんなくて頭から湯気が上がるなどということはない。しかしタダ働きなのだ。税理士資格有る無し云々という話にもならない。身内だからだ。今年の申告を完了すれば、この「のろい」は解ける。今週末までに「解呪の魔法演算」で対抗し、後腐れ無い安心を手に入れねば。
クマさんポットにブドウ糖タブレットを詰め込んで、魔力切れ対策もバッチリだ。近年修得したスキル「鼻メガネ」の発動もスムーズだ。
地味にたたかう地力勇者。「いまここの場所」での私。
誰もがみんな、って平均化したり並列的に括ったりできるだろうか…?
私はある意味「高レベルド変態」とも言えるかもしれないのだ。私の頭の中で考えたり見ていることのすべてを「全開」で言葉に組み上げて、それらのすべてを表現しても、たぶん伝わり難いか、まったく伝わらない。タブンネ。
私は反社会的な考えも倫理的でない考えも無いつもりだ。「良識」を逸脱してはいないはず…だし、無難なところをうろうろするのも一応できる、はず。
北斗有情猛翔破も使わないし、ローリングクレイドルで町内一周したりもしない。どんなに怒ってもジャーマンスープレックスとかパイルドライバーとかキメたりしない。ゴングハンマーは自分で握っていたいけどね。ゴングを自分でぶん殴ってリングへジャンプインだ…じゃなくて。話が逸れた。
少し前までは、「自由というやつは誰もがみんな求めるもの」などと思っていたが、そう単純なものじゃないと考えてしまうことがあった。どうやら、「自由」になるための「心の準備」ができていないと、「自由」が辛さの原因になってしまうらしい。
「自由」への渇望の果てに自由を発見するなら、それほど苦しい思いはしないだろう。でもいろいろな状態の人がいる。中には「自由」へ放されると“自分を保てない”心理的状態にある人も居るのだと、思い知らされた。
汎用性の高そうな「自由」を例えにしてみたが、つまり、「誰もがみんな、~だ」という観点が、難しい時代になった気がするって思うだけだ。