郡司

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2/9/2024, 3:05:13 PM

花屋に勤めていたときがある。…と言っても、長くはなかった。

花屋さんごとに、お店全体の雰囲気が違うのだが、気にされたことは皆さんおありだろうか。花は生きものの種族のひとつだから、「どこの花屋だろうが皆同じ」などではない。違うのだ。

花がみんなドヤ顔で生き生きしている花屋さんで花を選ぶのが良いと考える。そういうお店は、花を大切に扱っている。わかりやすく「花が元気」、言葉を変えれば「品質が良い」のだ。

お題のイメージに水を差すような話になるが、葬儀の花輪の白菊を元気よくみずみずしい状態に在らしめる生花店は、ちゃんと花を扱っている。平たく言って、「花に無理をさせてない」、こころあるところだ。

昔、私が少しの間勤めた花屋は、そうではなかった。基本的に花は「モノ」として扱われていた。切り花といえども、生きる期間はそこそこある。しかしまだまだ生きられる花でも、一度使ったら放り出し、「それはもう捨てるから」と踏み拉いてしまっていた。そのくせ花輪のベースとして大きめの代金を取れる白菊は切り口を焼いて「水揚げ」して何度でも使い回す。暗く涼しい地下室に据えられた一口コンロのガス火で、束にして焼く。けれども、疲れはてて「火」で生命力を削られまくっている白菊たちが、その「水揚げ」で元気になんかならないのは、あまりにも当然だった。他の花屋の花輪の白菊と、その店の白菊の違いたるや、痛ましいほどだった。

私は白菊の扱いがどうであるかを知る前から、何とも言えない居心地の悪さや表現し難いストレス感を覚えながら仕事をしていたのだが、なぜその場所での仕事にひどい苦痛感があるのか皆目わからなかった。地下の冷蔵室に行く必要が出るまでは。切り口を火で焼かれるおびただしい数の白菊は、本当に衝撃の光景だった。花も生きてる。本来のありようとは真逆の「ひどいめにあう」とき、耳には聞こえなくても「叫んで」いる。

家の庭で、土に植わっている薔薇やラベンダー、水仙や鈴蘭やツツジの「安心感・安定感」に触れたとき、植物の放つ響きがあることを思い知った。

ある日、店の裏口前を通りかかった高校生の女の子が、ピンク色のグラジオラスが床に落ちているのを見て(そして踏まれて花弁の光反射が失せているのを見て)、迷いながら、でも嬉しそうにそのグラジオラスを持って行った。私は涙ぐんでしまった。そしてその仕事を辞めた。

花束は、贈り主があるならその心を伝え届けてくれるメッセンジャーだ。生きてるから。華道では「切るのだから最大に美しく、その生命を活かすべし」という考えがあると聞いたことがある。花は生きもの。親しいよき友として、暮らしの中に迎えてあげてください…

2/8/2024, 11:15:13 AM

スマイル

ここ半年ほど、なにかと「認知症」の祖母が微笑む。まさに「アルカイックスマイル」という表情だ。目の光もとても平和に澄んでいて、見るたび目を奪われる。もともと表情豊かな人だが、この微笑みは新しく、美しい。

自分はあんなふうに微笑むことができるだろうか。私の中にはまだ「澄んだ平和の喜び」は多くない。

あの微笑みを見ると、「笑顔は贈り物」ということがまごう事なき真実だとわかる。それがたとえ、はっきりと自分に向けられたものでなくても、あの微笑みは豊かに広がり響くからだ。

いつか、あんなふうに微笑んでみたい。それを湧かせる心持ちを体験したい。

もしかして、あと半世紀を生きないと掴めない心持ちだろうか。なにせ祖母から見れば、私はヒヨッコのペーペーだ。「五十年早い」だろうか。
今の私ときたら、焔を湧かせて一仕事なして、一段落したら破顔でぶっとばすようなありさまだ。「稚い」と揶揄される程度。…伊達じゃない年寄りってすごいな…

2/7/2024, 12:06:11 PM

どこにも書けないこと、かぁ…

確かにこの場所は非常にローカルな感じの「書き処」ではある。SNSみたいに自己顕示欲抑圧バーストがそこかしこに火を噴いたり、互いに燃料をぶつけ合ったり、捻じ曲がった都合に「良さげな仮面」を被せて餅のように撒いたり、「AIの学習材料欲しがってる奴に皆の投稿を勝手に売るけど文句ないよね?」とかすごく遠回しに漂わせる運営者も居ないようだ。ここは良い場所だと思う。本当だ。

「言論の自由」は一応、法律で保障されてはいるけれど、さりとて素直に思うことを書くのも、注意深く場所を選ばなければ、何気ないことばがたくさんの「意図」や「無責任」に捏ねくり回された上に「バケモノ」のような様相を呈したりすることも、悲しいかな珍しくない。

みんなヒマなの? 寂しいの? 自分自身の心や定義に穴でも開いていて、それを埋めるために、他の人のことばを「どつきまわす」の? これまでにやってきた同様の事々は、そのこころを癒したの? 「自分はこれで良い」という「確信と赦し」を掴めたの? なにしてるの? 生きる時間は限りがあるよ?

…なんてことも、ここでしか「うっかり」書けない。
みんなそれぞれ、何かに気づいたり吸収したりするには、「ジャストなタイミング」とでも言うべきものがあるから、同時に同じことばが同じように栄養にできるとは限らない。誰が誰より、なんてこともない。それぞれだ。そして、それでいいのだと思う。

2/6/2024, 1:43:24 PM

時計の針…
私が子どもの頃は、見かけるのはほとんどアナログ時計で、秒針の音が大きいものも多かった記憶。秒針の音の間隔がだいたい正確に頭の中でカウントできる人が、私の周りではたくさんいた。時計の存在感は大きかった。静かな場所で存在を主張する秒針の音があったから。

祖母の実家には鳩時計があって、秒針の音は静かだったけれど、そのぶん鳩が出てくる時はけたたましかった。初めて鳩時計の鳩が飛び出す時間に居合わせた時は本当にびっくりした。二本の鎖の下端に、松ぼっくりを象った錘が付いているもので、「おしゃれな時計があるな」ぐらいの感覚だった。鳩時計の挙動にビクついたら、祖母が「鳩時計、っていうものだよ。時間で鳩が出てくる」と教えてくれた。

そういえば、時計の針自体が自分の間近に無くなっている今日このごろだ。若い頃は腕時計を着けて使っていたけど、今は時刻の確認の多くをスマホの画面でしている。自宅の居間にはアナログ時計を掛けてあるけれど、あまり見ない。

暮らしの中での自分と時計の関わり方を考えると、社会システムの動きを測るためだけに使っていると言って過言じゃない。在宅で祖母の介護をしているせいかもしれないが、私の生活は「半真空パック」のようだ。子どもの学校にまつわる行事等がなければ、割と「社会という外の世界」から隔絶気味になる。内的な時間感覚と、時計が示す時間経過とは必ずしも一致するものでないのは誰しも同じだろうと思うが、なんだか時間の流れるテンポが、「外」とずれているような気がしてしまうのだ。

私にとって、時計の針は「社会の動きの目安」に過ぎない。自分の動きや進みの程度は時計の針ではかれるものでもない。「みんなに合わせる」ための「物差し」なのだ。自分自身の内的な時間は、一気にはるかへ飛ぶときもあれば、ゆっくり進むときもある。…だから鳩時計にびっくりしてしまうのかもしれない。

2/5/2024, 11:30:19 AM

溢れる気持ち、は、ある程度生きているといろいろなケースでイヤでも経験する。まあ、目を閉じ、耳を塞いで、自分自身の課題のある場所を「大回りして避ける」ことをやり続ければ、自分自身の内側の反応に向き合うことも無いのだが、それで「やり過ごせる」ほど、人間の意識は甘くできてない。

これが「よくできてる」というか、「厄介」というか、無視してぶっちぎったつもりが、しっかりべったりと自分に貼り付くようについて来る。平たく言ってしまえば「逃避不可」なのだ。念のため言うが、これは自分自身の内側にある要素のことであって、他者から投げられる理不尽のことではない。自分の中に忘れたつもりで埋めた素朴なねがいは何か? それに対して自分は自分をどう扱っているのか?

いつかは必ず、自分の中に「溢れる気持ち」に向き合うときが来る。

この時期のこのお題だから、多分もっとふんわりした意味合いでの「溢れる気持ち」なのだろうと思うが、「溢れる気持ち」というやつは、喜怒哀楽も愛も感謝も憎悪もある。自分自身の気持ちである以上、自分でその「手綱を捌く」力も必要になる。手綱を捌くというのは“自分の気持ちを抑圧する”という意味ではない。自分の気持ちにシカトぶっこいたりしない、という意味だ。

年取ると涙もろくなる、と、よく言う。はっきり言ってしまえば、「脆く」はならない。あれは人生のいろいろな経験による「感性の拡がり」がもたらす「表現」のひとつだ。思考パターン処理のキャパでは表現しきれない気持ちを涙が表現する。

小さな子ども達が何かに真剣に頑張っているところを見たり、のびのびと楽しそうに、でも全力で振る舞う様子を見たりすると、ボロボロ泣き出す中高年は少なくない。その心に「溢れる気持ち」の根本には、人間愛があったり、深い感謝があったりする。

もちろん、易々と涙を出したりしないように自分自身を律する人も多い。個人的には、時々どこかで、そういう「溢れる気持ちが表現されてる涙」を、素敵な笑顔と一緒に、遠慮なく出してほしいな、と思う。そして更に、自分自身の素朴なねがいにも、同じように「愛や感謝から溢れる涙」を惜しまず注いでほしいとも思う。

生きる年月を重ねることは「枯れること」だという誤解がたくさんあるようだ。どっこい、心の瑞々しさは枯れるどころかますます豊かに拡がりゆくのだ。

腹を括って年取るんだぞ、みんな頑張れ。

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