花屋に勤めていたときがある。…と言っても、長くはなかった。
花屋さんごとに、お店全体の雰囲気が違うのだが、気にされたことは皆さんおありだろうか。花は生きものの種族のひとつだから、「どこの花屋だろうが皆同じ」などではない。違うのだ。
花がみんなドヤ顔で生き生きしている花屋さんで花を選ぶのが良いと考える。そういうお店は、花を大切に扱っている。わかりやすく「花が元気」、言葉を変えれば「品質が良い」のだ。
お題のイメージに水を差すような話になるが、葬儀の花輪の白菊を元気よくみずみずしい状態に在らしめる生花店は、ちゃんと花を扱っている。平たく言って、「花に無理をさせてない」、こころあるところだ。
昔、私が少しの間勤めた花屋は、そうではなかった。基本的に花は「モノ」として扱われていた。切り花といえども、生きる期間はそこそこある。しかしまだまだ生きられる花でも、一度使ったら放り出し、「それはもう捨てるから」と踏み拉いてしまっていた。そのくせ花輪のベースとして大きめの代金を取れる白菊は切り口を焼いて「水揚げ」して何度でも使い回す。暗く涼しい地下室に据えられた一口コンロのガス火で、束にして焼く。けれども、疲れはてて「火」で生命力を削られまくっている白菊たちが、その「水揚げ」で元気になんかならないのは、あまりにも当然だった。他の花屋の花輪の白菊と、その店の白菊の違いたるや、痛ましいほどだった。
私は白菊の扱いがどうであるかを知る前から、何とも言えない居心地の悪さや表現し難いストレス感を覚えながら仕事をしていたのだが、なぜその場所での仕事にひどい苦痛感があるのか皆目わからなかった。地下の冷蔵室に行く必要が出るまでは。切り口を火で焼かれるおびただしい数の白菊は、本当に衝撃の光景だった。花も生きてる。本来のありようとは真逆の「ひどいめにあう」とき、耳には聞こえなくても「叫んで」いる。
家の庭で、土に植わっている薔薇やラベンダー、水仙や鈴蘭やツツジの「安心感・安定感」に触れたとき、植物の放つ響きがあることを思い知った。
ある日、店の裏口前を通りかかった高校生の女の子が、ピンク色のグラジオラスが床に落ちているのを見て(そして踏まれて花弁の光反射が失せているのを見て)、迷いながら、でも嬉しそうにそのグラジオラスを持って行った。私は涙ぐんでしまった。そしてその仕事を辞めた。
花束は、贈り主があるならその心を伝え届けてくれるメッセンジャーだ。生きてるから。華道では「切るのだから最大に美しく、その生命を活かすべし」という考えがあると聞いたことがある。花は生きもの。親しいよき友として、暮らしの中に迎えてあげてください…
2/9/2024, 3:05:13 PM