溢れる気持ち、は、ある程度生きているといろいろなケースでイヤでも経験する。まあ、目を閉じ、耳を塞いで、自分自身の課題のある場所を「大回りして避ける」ことをやり続ければ、自分自身の内側の反応に向き合うことも無いのだが、それで「やり過ごせる」ほど、人間の意識は甘くできてない。
これが「よくできてる」というか、「厄介」というか、無視してぶっちぎったつもりが、しっかりべったりと自分に貼り付くようについて来る。平たく言ってしまえば「逃避不可」なのだ。念のため言うが、これは自分自身の内側にある要素のことであって、他者から投げられる理不尽のことではない。自分の中に忘れたつもりで埋めた素朴なねがいは何か? それに対して自分は自分をどう扱っているのか?
いつかは必ず、自分の中に「溢れる気持ち」に向き合うときが来る。
この時期のこのお題だから、多分もっとふんわりした意味合いでの「溢れる気持ち」なのだろうと思うが、「溢れる気持ち」というやつは、喜怒哀楽も愛も感謝も憎悪もある。自分自身の気持ちである以上、自分でその「手綱を捌く」力も必要になる。手綱を捌くというのは“自分の気持ちを抑圧する”という意味ではない。自分の気持ちにシカトぶっこいたりしない、という意味だ。
年取ると涙もろくなる、と、よく言う。はっきり言ってしまえば、「脆く」はならない。あれは人生のいろいろな経験による「感性の拡がり」がもたらす「表現」のひとつだ。思考パターン処理のキャパでは表現しきれない気持ちを涙が表現する。
小さな子ども達が何かに真剣に頑張っているところを見たり、のびのびと楽しそうに、でも全力で振る舞う様子を見たりすると、ボロボロ泣き出す中高年は少なくない。その心に「溢れる気持ち」の根本には、人間愛があったり、深い感謝があったりする。
もちろん、易々と涙を出したりしないように自分自身を律する人も多い。個人的には、時々どこかで、そういう「溢れる気持ちが表現されてる涙」を、素敵な笑顔と一緒に、遠慮なく出してほしいな、と思う。そして更に、自分自身の素朴なねがいにも、同じように「愛や感謝から溢れる涙」を惜しまず注いでほしいとも思う。
生きる年月を重ねることは「枯れること」だという誤解がたくさんあるようだ。どっこい、心の瑞々しさは枯れるどころかますます豊かに拡がりゆくのだ。
腹を括って年取るんだぞ、みんな頑張れ。
2/5/2024, 11:30:19 AM