郡司

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時計の針…
私が子どもの頃は、見かけるのはほとんどアナログ時計で、秒針の音が大きいものも多かった記憶。秒針の音の間隔がだいたい正確に頭の中でカウントできる人が、私の周りではたくさんいた。時計の存在感は大きかった。静かな場所で存在を主張する秒針の音があったから。

祖母の実家には鳩時計があって、秒針の音は静かだったけれど、そのぶん鳩が出てくる時はけたたましかった。初めて鳩時計の鳩が飛び出す時間に居合わせた時は本当にびっくりした。二本の鎖の下端に、松ぼっくりを象った錘が付いているもので、「おしゃれな時計があるな」ぐらいの感覚だった。鳩時計の挙動にビクついたら、祖母が「鳩時計、っていうものだよ。時間で鳩が出てくる」と教えてくれた。

そういえば、時計の針自体が自分の間近に無くなっている今日このごろだ。若い頃は腕時計を着けて使っていたけど、今は時刻の確認の多くをスマホの画面でしている。自宅の居間にはアナログ時計を掛けてあるけれど、あまり見ない。

暮らしの中での自分と時計の関わり方を考えると、社会システムの動きを測るためだけに使っていると言って過言じゃない。在宅で祖母の介護をしているせいかもしれないが、私の生活は「半真空パック」のようだ。子どもの学校にまつわる行事等がなければ、割と「社会という外の世界」から隔絶気味になる。内的な時間感覚と、時計が示す時間経過とは必ずしも一致するものでないのは誰しも同じだろうと思うが、なんだか時間の流れるテンポが、「外」とずれているような気がしてしまうのだ。

私にとって、時計の針は「社会の動きの目安」に過ぎない。自分の動きや進みの程度は時計の針ではかれるものでもない。「みんなに合わせる」ための「物差し」なのだ。自分自身の内的な時間は、一気にはるかへ飛ぶときもあれば、ゆっくり進むときもある。…だから鳩時計にびっくりしてしまうのかもしれない。

2/6/2024, 1:43:24 PM