郡司

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そういえば、「待っててね」という想いでいた記憶がほとんどない。子どもの保育園へいそいそと迎えに向かうときはいつも想っていたんだけど…

むしろ、「間に合わなくちゃ」という感覚の方が、圧倒的に多かった気がする。言うまでもないことかもしれないが、大事な物事に関するときばかりだ。

いつ頃からそんな感覚になったのか記憶の網を手繰ってみて、自分が20歳のときの、親友の急な逝去に思い至った。交通事故で、その死に伴って周りの人達に凄い勢いで波及していった心の衝撃や痛みの様相の中に私も巻き込まれた。厳密な意味で「単独事故」ではなかったことが、関わる人達の心曇る期間を長引かせていた。あまりに突然な親友との「死別」が、それからのち現在に至るまで、私のメンタリティや行動の基本方針に大きく影響を及ぼしているのは間違いなさそうだ。

その基本方針、言わば「努力目標」の目指すところは、以下のようなものだ。
自分が何を考えているのか、惜しみなく表現する…ただし、傷つけないことをだいじに。でも自分の至らなさを根絶できなくても、誤解があればそれを解く努力を忘れないようにする… 誰と「死別」しても後悔に沈まないように、自分にできる「良い表現」を尽くせるようにする…。つまるところ、私は「大好きな人たち」との間に育み、棺桶の向こうまでも抱きしめて行ける“こころの宝”が、いつも温もっていてくれることに執しているのだ。やっぱり私は強欲であるらしい。

強欲な私から、「小さな魔法の覚書」を一つ、プレゼント致そう。バレンタインだからね。これは誰でもできるし、あなたの「大好きな人」が、たとえ地球の裏側に居てもちゃんと届く。注意しなければならないことはひとつだけ。この魔法は、「純然たる祝福の想い」であることが、発動の絶対条件だ。「相手を自分の思うとおりにコントロールしたい」などと望むと、そもそも作用できない。ともあれ、楽しい気持ちで取りかかって下さいね。

魔法はイメージをとっかかりに生まれてはたらくと言われている。でもイメージ以前にある「意図」と「感情」が、「魔法が生まれる」原初地点であり、「イメージ」は作用ムーブメントの具体化を担う部分だ。私は今「魔法」などと表現しているが、これは現実事象の万般にわたる共通事項であり、このプロセスを経ないで出し抜けに顕現する事象は皆無だ。地球という場所では。意識的であろうが、“無意識的(つまり無自覚)”であろうが、皆、息をするように「魔法」を使っている。個人レベルと集団レベルがあるが、そこへの言及は今日の論旨から逸れてしまうので、またいつか。

さて、イメージ。
自分の左手に、銀に輝く光を持つ。炎のような光だ。その銀の炎に、空高くから綺羅星のような光が降り注ぐ。そのきらめきは一つひとつが純然な愛という生命だ。銀の炎をできるだけ美しく、澄んだ光にしてゆく。

左手はそのまま、今度は自分の右手に、明るい紫の光を持つ。色美しく澄んだ紫の炎だ。

両手それぞれに持っている二つの光の炎を、自分の胸の前で合わせ、ブレンドする。

ブレンド光を両手で「丸める」。おむすびみたいにイメージしても良いだろう。丸めた光を、自分がちょうど良く感じる大きさにする。

届けたい相手のところに、それが届く。細かな部分は想像力を働かせて、より良く自分らしく創造的に。

即時的に顕れるかどうかを気にしない。目に見える証明を求めない。このプロセスはイメージする傍から本当にエネルギーが組まれて動く。目玉に見えなくても、はたらく。応用が利くので、自由に楽しむことが大事だ。


2/14/2024, 12:49:41 AM