興味深い実験の話を聞いたことがある。ある新年会の席の余興で、「一年後に叶っている自分の希望」を、参加者全員、小さな紙片に書いてもらい、“来年の新年会でまたこの紙をみんなで見てみる”ことにした。さて、一年後の新年会でまた余興としてそれを見たところ、実に八割以上の人が、「紙片のねがい」を叶えていたそうだ。気軽な余興、酒の入った酔っぱらい達が、概ね楽しく気軽に書いたものだ。紙に自分の希望や夢を書き出すこと自体が、「現実への最初の出力」であるのは確かだと思う。
「何かのテーマについて、未来の自分からメッセージを受け取ることができる」と、聞いたこともある。
たぶん、その「自分」は、「時間計測の先にある自分」ではない。正確に表現するなら、「今日の自分と同一自我」ではない。ただ、「存在は同一」だ。「存在」と「自我」は違う。自我は「存在の窓口」だ。
未来の自分であるなら、自我は今より洗練されている可能性が高い。人間は進む。“ぜんぜん進んでないし成長してない。自分の周りの心象風景だって変わらない”と思うかもしれないが、成長は螺旋で上昇するように進む。「またもや同じ風景」に見えても、「高さ」が違う。つまり、「未来の自分」とは、「現在よりも認識の俯瞰性が高い自己意識」とも言えそうだ。
人間は愛する生きものだ。異論は認めない。「愛をもって眺める深さが増している意識領域」が出してくるメッセージなら、力強い信頼性がある。なによりも、自分で自分を真にだますことはできないのだ。
さて、私も「未来の自分からのメッセージ」にアクセスしてみよう…
曰く、「生きる瞬々のどんな部分も、紛う方なき愛を以て抱きしめられるようになる。なに、心配すんな」と。それって10年後か?…
また曰く、「今更年限なんて必要かね」と。確かに。
2/16/2024, 5:37:22 AM