穏やかな波の音が響く、夜の浜辺。
月は雲に隠れて、暗い海と向こう岸に見える明かりだけが目に映る。
波打ち際から少し離れたところに黒のタイツと靴下、白のスニーカーを綺麗に重ねて置いて、そこから遠ざかるようにして、右へ右へと、私は裸足で砂の上を歩いていた。
夜の砂浜はひんやりとしていて、一歩一歩踏みしめる感触がやけに心地良い。
緩やかな潮風に靡く髪を片手で抑え、対岸の風景と海に目を遣って進みながら、ああ、この時を好きな人と過ごすことができたらなあ、とぼんやり思った。
もしそれが現実のものだったら、こんなふうに感傷的に彷徨うのではなく、二人で着衣のまま腰までを海に浸からせ、互いに水をかけあっているのだろう。私が好きになるのは、一緒にそのようなことをしてくれる人だろうから。
実際、私には想いを寄せている人がいる。いつも教室の隅っこで読書をしている、物静かな男の子だ。
その人はどのような学校行事でも、自分の出番以外のときは読書をしていた。ライトノベルというやつばかり読んでいるらしかったのだけれど、真剣に目を通している彼のその姿になぜか惹かれ、気づけば、見かけたときには必ず目で追うようになっていた。教室でも、図書館でも、街中でも。
接点などないのに好きだと思うのは、脳が勘違いしているからだと何度も思った。しかし日に日に想いは増すばかりで、私の胸は、すぐにでも破裂しそうなくらい、苦しくなっていった。関わりを持つために声をかけようとしても、話題が思いつかなくて、幾度となく断念した。それでも、彼へのこの気持ちは諦めきれなかった。
だから私は、彼が読んでいたと思われるライトノベルを、片っ端から読んでいくことにした。
そのうちのひとつ、『学校一の美少女は俺と戯れたい』という作品に、主人公とメインヒロインが海辺で楽しそうに水遊びしている場面があった。この作品は私が読んだライトノベルの中でも一番共感できたやつで、特にこのシーンがお気に入りだった。彼が教室内で友達と話しているときに「僕もこんな青春したいな」と言っていたのが耳に入ったから、その補正もあってのことだと思う。
四十冊くらい読んだけれど、相変わらず、彼に話しかけることはできなかった。
いたずらに時は過ぎていって、学年が上がって彼とまた同じクラスになっても、状況は変わらない。
そこから目を逸らすように、私はこの浜辺をうろうろするようになった。
このままじゃいけないことはわかっている。
でもきっと、振られることのほうが怖いのだ。
だから傷つかないように殻に閉じ籠って、現実から逃避している。
私は、私を変えたい。
そう思うけれど、なかなかその一歩を踏み出すことができない。
近づきたい、壊れたくない、という二つの想いが、複雑に絡まり合っている。
……それでも、好き。
この想いに、嘘偽りはない。
「好き、なの……」
呟く声は、波の音に溶けて消える。
そのあと、一際強い風が吹いて、目を瞑った。
風が止んで視界を開くとき、ふと空を見上げる。
雲の隙間から、月の光が私を照らしていた。
明日から私が殻を破れるよう、お月さまが励ましてくれているようだった。
元気ハツラツ、底抜けに明るい、誰にでも優しい。このうちのいくつかに該当する人のことを、太陽のような存在、と喩えることがある。現在では、自分の好きな人や推しが目映い存在である、という意味で用いることのほうが多いのではないだろうか。
私には、好きだとか推しだとか言える何かがないから、太陽のような、という比喩を使うことができない。これはとても悲しいことだ。生き甲斐がない、と公言しているのと同じだから。
淡々と過ごす日々は退屈で、いつも日が昇るたびに「また朝か……」と思ってしまう。眠りにつくときは幸せなのに、目覚めると憂鬱な気分になってしまうのは、ずっと夢の中にいることを無意識下で願っているからだ。断定しているけれど、そこにはそうあってほしいという私の想いが込められている。
十六の歳で永い眠りを望むのは、早すぎるにもほどがあるのだろう。しかし私には夢や目標もなければ、守りたいと思うものさえない。このまま生き続けるくらいならさっさと火葬されたほうがマシだと考えるのは、至極真っ当なことであるような気がする。
私の前に、太陽のような存在と呼べる人は現れるのだろうか。もしその人と出逢えたのなら、私のこのつまらない日常も、少しは良い方に向かうのだろうか。
夢から醒めてうだうだと巡らせていた思考を断ち切り、上体を起こす。
カーテンを開けると、眩しい日の光が、窓から差し込んできた。
私の部屋に、春の陽気が満ちていく。
……朝は嫌いだ。
だけれど、このときはなぜか、優しい温もりが、自分の中に宿る感覚がした。
あたしには余白や空白の良さがわからない。文字を書いたり絵を描いたりして生じるそれらを美と讃えるのなら、初めから何も記さなければ、美そのものを体現していることになると思うからだ。
人についても同じことが言えそうだ。白紙のままであるほうが、何でも刻むことができるという余地を残していて、あたしの腹黒い欲望を刺激する。
誰も似たようなものだと思う。赤ん坊に愛おしさを覚える点は、その最たる例ではないだろうか。
純新無垢な存在を自分の手で穢すという行為を恐ろしいことのように感じるかもしれない。けれどゼロの状態である赤ん坊に上書きをしていくことは、まさにそれと同じだ。そう考えると、白紙も人の手が加わって作られたものだから、真に美しいものではない、と言えそうな気がしないでもない。
本当のゼロも究極の美も、刹那的にしか存在していないのだろう。
現役生のときに受験で全落ちした僕は、一年間浪人しても再び全落ちした。
予備校に通い詰め、模試でも納得のいく結果を出していたのに、本番になると調子がおかしくなってしまったからだ。
不安はなかったし、緊張もしていなかった。むしろワクワクしていた。
だというのに、この有様だった。
昨年に引き続いて絶望を味わった僕は、親に対してどんな顔をすればいいのか、てんで見当がつかなかった。
今後の生き方にも思い悩むから、なおさら辛い。
浪人すればするだけ、同い年の人たちからは出遅れる。難関校や超難関校、医学部を志望しているのなら理解できるけれど、僕の場合はそういうわけでもないから、諦めて就職することも視野に入れないといけない。
しかし僕は、紙面の勉強としか向き合ってこなかったため、職業のことをほとんど知らなかった。どういう試験を受けて、どういう訓練を積まなければならないのか。職種によって異なるのだろうけれど、そういった方向に暗いのである。
自室の布団の中で打ちひしがれていると、友人から連絡があった。
『結果、どうだった?』
嘘を吐いても虚しくなるだけなので、『全落ちしたよ』と正直な内容を打ち込む。
既読の文字が下に表示されても、彼が返信してくる気配はなかった。
何を言えばいいのか、考えているのだろうか。
違う、と思った。きっと彼は、下手に同情して僕を傷つけないために、あえて何も言わない。
既読無視されるだけ、マシだった。
両親にも結果を報告し、家族会議を重ねた結果、僕は自衛隊学校に行くことになった。学ぶとともに、お金を貰えるからだ。
そのことを彼にも伝えた。彼からの返信は、たったのひと言だった。
『頑張れよ』
同情をくれない彼のその言葉は、優しさに溢れていた。
この人と友達でいられることを、僕は誇りに思う。
肌寒い風に身を震わせながら、並木道を歩く。
左右に植えられた木々の葉は既に変色していて、秋の訪れを強く実感させる。
路面には、落ち葉となってうっすらと積もっている枯葉たち。
春に芽吹いていた生命の象徴は、いまやその役目を終えようとしていた。
嬉しいことも悲しいことも、気づけばあっという間に過ぎていって、何事もなかったかのように季節は巡る。
秋は、四季の中で最も哀愁を感じさせる季節だ。
それを視覚的に表しているのが、色褪せた葉っぱ。
なんとなく今日を生きている私も、いつかは枯葉と同じように、やがて風化していく。
それを思うと、年老いていくことは避けられないのに、漠然とした不安と恐れを抱かずにはいられない。
これもまた、人情というものだろう。
人は理性的ではあるけれど、生き物である以上、感情に抑制が効かないこともある。
私はいま、人肌が恋しい。
誰かとまったりしたひと時を過ごし、肌を重ね合わせ、愛を育むことを切望してしまう。
三十代にもなっていまだに男の人を知らないのだから、拗らせている。
このまま私は、四十代を迎えてしまうのだろうか。
答えてくれる人は、どこにもいない。
……寒空の下、またヒラヒラと枯葉が舞っている。
苦悩を抱えて、私は落ち葉を踏みしめていく。
クリスマスのイブまでには、恋人をつくりたい。
心から、それを望む。