無事に高校一年生が終わって、春休み。
帰宅部に所属している私は、朝七時くらいに目覚めるとすぐに定量の宿題を済ませ、あとは悠々自適に過ごします。
自分の部屋で一日中ごろごろしているのは、さいこーに気持ちがいいです。
私の両親は、一昨日から母方のおばあちゃん家へ行っています。
ここから一〇〇キロメートル以上も離れた田舎にあって、私はお留守番しています。
おばあちゃん家や田舎が嫌いというわけではなく、昔の記憶にある、往路での出来事が忘れられないからです。
私は幼い頃、おばあちゃん家に行く途中にある二つ目の道の駅で、迷子になったことがあります。
そこにはたくさんの人がいて、両親と離れていたこともあって、見知らぬ誰かに誘拐されるのではないかとびくびくしていました。
もちろん、そのようなことに巻き込まれることはなく、しばらく経って両親が私を見つけてくれました。
安心したことで大泣きしてしまったのを、いまでも覚えています。
事故に遭ったのは、そのあとのことでした。
……いえ。父が、事故を起こしてしまったのです。
追突事故、でした。
幼かった私には、その事実しかわかりません。
いまでも、両親には原因を教えてもらっていないのです。
憶測にはなりますが、お昼ご飯を食べた直後だったので、居眠り運転をしてしまったのではないでしょうか。
幸い、向こう方に負傷者は誰もいないようでした。
車の傷も大したことではなかったみたいで、あとのことは順調に進んだと聞いています。ここは、両親の会話を盗み聞きしました。
それでも私には、あのとき揺れた車の衝撃が、身に染みて恐怖となっているのです。
以降、私は、車に乗せてもらっていません。
どこか遠くへ出かけるときは、自転車や新幹線を利用しています。
フェリーは船酔い、飛行機は墜落が怖いので、移動手段に含めていません。えへへ。
逢魔ヶ刻、灼けた空。
人気の無い、狭隘な路地裏を往く。
周囲は年季の入った古民家許りと云ふ事もあり、此の刻のおどろおどろしさが、脳髄の核に直に伝わって来る。
戦時中に負傷してずるずると足を引き摺る兵士のような重たい足取りで歩いていると、右前方に見える、エアァコンディショナァの室外機の横に置かれた、落色しているであろう蓋付丸型ペェルの青い塵箱が、何故か妙に気になった。
努めて歩調を早めて近寄った後、蓋を外して中を覗く。
「『日刊現実逃避』……?」
一冊の雑誌が放り込まれていただけで、他には何も無い様であった。
其の日刊誌の表紙には色々と文字が記載されているみたいであったが、此の明るさでは良く読めぬ。雑誌名は大文字であった為、辛うじて読む事が出来た。有名人の写真は掲載されていないらしい。
文字に埋め尽くされた表紙は、実に奇妙であった。販売者も購入者も、言葉の魔力を信じている様に感ぜられたからである。
日刊誌を再び塵箱の中に放り、蓋を閉めて、路地裏の続きを往く。
此の路を抜けた先には、踏切が待っている。
現実逃避とは、何であろうか。
現実から目を逸らそうとした所で、行き着く先は所詮、現実である。
我々は、其の様な方法では現実から逃れる事など出来やしない。
なれば。
「死」以外の他に、完全なる逃避を成し遂げられるワケがないであろう?
私は是から、其の悲願を成就させる。
邪魔する者は、何処にも居ない。
今日も又ひとりの人間が、現実から逃避する――
「君は今」というお題を見た途端、『ひぐらしのなく頃に』の『you』が脳裡を過り、これ以上に適切なものはないと思ったため、本日はお休みします。
物語を書きたいと思うのに、拘りが強過ぎるあまりに何も書くことができない。
狭い間隔で同じ表現を繰り返したくない。接続詞の不自然な使い方を避けたい。文末が気持ち悪くならないようにしたい。
そうやって自分で雁字搦めにしているから、苦しさは増していく。
どうすれば、良いのだろう。
テーブルライトを点けて自室の勉強机に向かいながら、頭を抱えていた。
飛行機が大気を翔ける音がして、ふと顔を上げる。閉め切っていたカーテンを少しだけ捲り、窓の外を覗いた。
街を覆い尽くす、物憂げな空。
午後からはきっと、雨が降るのだろう。
よく晴れた空の下、高校の屋上に設けられたベンチの上に寝そべり、音楽を聴いていた。
耳にイヤフォンをはめ、上着のポケットに仕舞っているウォークマンにまで、線が伸びている。
目を閉じて曲に耳を澄ませ、自分の心の機微を確かに感じ取りながら、優雅な昼のひと時を過ごしていた。
「あ、せんぱーい! やっぱりまーたここにいた」
次の曲に変わろうとしたタイミングで、俺を呼ぶ誰かの声がした。
片目を開き、出入口から歩み寄ってくる人物のほうを見る。
それが誰であるかを把握した俺は、再び瞼を下ろし、そのまま曲を聴くことにした。
「こっち見たのに無視するとか、せんぱいひどーい」
何か言っているようだが、音楽に集中しているため、それを拾うことはできない。
まだ曲の序盤だというのに、左耳からイヤフォンが抜き取られた。右耳のもすぐに引っこ抜かれる。
「おい、何してくれてんだ」
閉じていた目を開いて、俺の頭部側に来ていた女子に抗議する。可愛いらしい顔と豊満な胸が近いのは気になるが、それどころではない。
「だってせんぱい、私に気づいたのに無視したでしょ。だからおあいこ」
「どこがおあいこだ。俺はひとりの時間を満喫してたんだ。邪魔してきたのはそっちだろ」
「とかいって、ホントは嬉しいんでしょ~」
「なわけあるか。それより、顔と胸、どけてくれ。近くて起き上がれん」
「ちょ、それセクハラっ!」
顔を赤らめながらも、ひとつ年下の少女は大人しく言うことを聞いてくれる。
俺はベンチの右側に詰め、ひとり分のスペースを空けた。
「あ、ありがと……」
恥じらいを露わにしたまま、彼女は腰を下ろす。
「で、何か用があって来たんだろ?」
「別に用ってわけじゃ……せんぱい、今日は何の本読んでるのかなー、って思っただけ。ほら、いっつも違うの読んでるしさ。教室に行ってもいなかったから図書館覗いてみたんだけど、人が多いし、じゃあ屋上かな、って思ったんだよ」
「つまりストーカーってことだな。わかった、然るべき処置を取らせてもらう」
「もー、つまんない冗談やめてよー。せんぱい、私がせんぱいのこと好きって知ってるでしょ?」
「初耳だ」
「嘘ばっかりー。だって、こんなにせんぱいのところにくる女子なんて、私くらいだよ? 気づかないわけないよねー」
にやにや笑いながら、彼女は俺のほうを見てくる。
はあ……とため息をひとつ吐いて、俺は正直に言った。
「好意を向けられてるってのはさすがにわかる。けど俺には、付き合うってのがどういうことかよくわからん」
彼女は、まだ同じ表示を浮かべている。
「なんだよ」
「せんぱーい、私、好きとは言ったけど、付き合って、なんて言ってないよ? 」
「ぐっ……」
早とちりしていたみたいだ。てっきり、そういうことなのだとばかり思っていた。恥ずかしさで、自分の顔に熱が集中している。
「でも、せんぱいもそう思ってくれてたんだなーって、なんだか安心した」
「……え?」
「私、せんぱいとお付き合いしたいってずっと思ってた。だからせんぱい、ひとつだけワガママ言っていい?」
彼女が何を口にするのか、わかってしまった。けれど頷くだけにとどめ、静かに続きを待った。
「私、せんぱいの彼女になりたい」
嬉しさと恥ずかしさとが混ざりあって、しばらく、口を開くことができなかった。
二人とも、顔の火照りが最高潮に達している。
束の間の沈黙を破るように、なんとか、言葉を紡いだ。
「お、お前がそれでいいなら……」
喜びのあまりか、彼女は顔を両手で覆ったり、ぱたぱた扇いだりと忙しない。
紅潮した顔がお互いに平常に戻ったあと、彼女は、ひとつのお願いを口にした。
「ね、せんぱい。手、繋ぎながら、一緒に音楽聴きたい」
「い、いいけど……」
そう言って彼女にイヤフォンのR側を差し出し、彼女に合わせて、俺もイヤフォンを耳に装着する。ぎこちなさを伴いながらも、ぎゅっと、互いに互いの手を握りあった。
流しっぱなしにしていた音楽は、いつの間にかBUMP OF CHICKENの『ファイター』になっていた。
大切なものを守るための勇気をくれる、そんな曲。
この先どんなことがあっても、彼女を幸せにする。
小さかった俺の命に、確かな情熱が灯った。