「さくら、冨樫先生が亡くなったって……」
突然の事だった。スマホから顔を上げた母から告げられたのは、大好きな先生の訃報。
あまりに予想外の出来事は、右耳から左耳へと流れていく。
「冨樫先生ってあなたのクラスの副担だったわよね? それに新聞部の顧問でしょ?」
母の声が夕下がりのひと時のBGMとなって、本のページをめくる手を急かしてくる。
「ねぇ、さくら聞いてる?」
ぐらぐらと肩を捕まれ揺さぶられて、ようやくスマホから視線を外す。
「え、冨樫先生……?」
不安そうにこちらを見つめる目に胸騒ぎがして、とにかく友達の様子を知りたくなった私はインスタを開いた。
ノート欄を開くと「信じられない」「冨樫先生…?」「エイプリルフールじゃないよな」といった言葉が並んでいる。
息を飲んだ。
待ってほしい。まさか本当だと言うのだろうか。
「ほら、学校からメールよ。化学の冨樫先生ってあの人でしょう?」
眼前に突きつけられた液晶が、私を現実へ引きずり込む。
呆然という言葉の通り、画面を見ることしかできない。
「明日の学校で詳細が話されるって……」
恐らく母はそんなことを言っていた。
あまりの衝撃に、私は翌日のその瞬間まで頭が正常に回っていなかった。
「冨樫入正先生は先日の正午ごろ、市内の病院でお亡くなりになりました」
校長先生の震えた声で、我慢の限界がきた。
気がつけば私の頬は濡れていて、ぎゅっと握っていた両手のハンカチは許容量を超えた塩水でくたびれていた。
あちこちからすすり泣く声が聞こえる。
春は別れの季節と言うが、こんなお別れはあんまりだ。
桜が蕾を作り始めた頃。
私は今日を忘れない。
No.14【涙】
ズキン――
胸を突き刺すような痛みが突然私を襲った。
後輩から手渡された花束。泣くのを我慢しているような鼻声。周囲を包む、巣立ちを祝う祝歌。
そうか……私、今日卒業するんだっけ。
ぼんやりとしていた頭が、一気に覚めていく感覚がした。
それと同時に、ドキドキと脈が早まっていく。
これまで実感のわかなかった「卒業」という言葉が、鈍器になって脳を強く揺らす。
「先輩……?」
はっとして顔を上げると、そこには先程花束を渡してくれた後輩が心配そうにこちらを覗き込んでいる。
さらりとした黒髪。キリッとした二重まぶた。式が終わってそうそうに着崩している学ラン。
「どうかしましたか?」
「あ、いや、なんでもない……ただ、ほんとうに卒業するんだよなって。直くんと喋れるのも最後なのかなって思うと、ちょっと寂しくなっちゃった」
情けない自分を隠すようにはにかんでみる。
けれど、言葉にするとなおさら重たくなって、私の目からは隠しきれない悲しみが溢れてしまう。
「ごめ……っ、な、泣かないはずだったのに」
堰を切ったように零れる涙は、いくら拭っても止まる気配はない。
「先輩は泣き虫ですね。初めて会ったときも泣いてませんでしたっけ?」
「うるさいっ」
「映画館出たら同じ学校の制服着てる人がギャン泣きしてるんですもん。まじびびりました」
けらけらと笑いながら学ランの袖で私の涙をすくう姿に、ぎゅっと心臓が掴まれる。
「あれはっ、めっちゃ泣ける映画だったから! それに、直くんだって今すごく泣きそうな顔してるし!」
あまりに面白そうに笑うものだから、ついむっとして反論する。直くんが平然としていて、どきどきしている自分に腹が立つ。
きっと直くんは全然意識してないのに、自分だけこんなに気にしちゃうなんて不公平だ。
「別に……そりゃ、先輩が遠くに行くとか、悲しいに決まってるじゃん」
全身が沸騰する。暑さで頭がくらくらしてしまう。きっと今の私の顔は、胸元のカーネーションのコサージュよりも真っ赤に違いない。
「なにそれ、ずるいよ」
「ずるくない。先輩がどっか行っちゃう前につかまえないと、先輩すぐ変なやつに着いて行きそうで心配なんです」
真剣な眼差しを向けられ、落ち着かない気分になる。
「ごめん、直く――」
「やだ」
遮る声に戸惑いが隠せない。
「先輩の行く大学の法学部ってけっこう良いとこなんですよ。俺、そこ行くから」
花束を持つ私の手を包んで、直くんは意地悪そうに微笑んだ。
「だから覚悟しといて。来年になったら迎えにいくから。そしたら、年齢とか将来とか無視したちゃんとした先輩の返事聞かせてくださいね」
No.13【心のざわめき】
――神様、一生に一度のお願いです。
どうか、どうかあの人たちを――
2011年3月11日
春とは名ばかりの、雪の降る日のこと。
凍える手先をストーブにかざして、私はぼーっとガラス越しに積もる白色を眺めていた。
明日の雪かきは大変だと呑気に考えていると、スマホの通知音が鳴り、画面に「姉さん」の三文字が浮かび上がる。
「そういや、花音ちゃんの中学って今日が卒業式だっけか?」
いつの間にか姉と同じくらいの身長になっている姪を見て、時が流れる早さを実感する。ディスプレイに写る姉家族の幸せそうな笑顔に、私の口角もつられて上を向いた。
卒業祝いは何がいいだろうか? そういえば前に姉さんのとこに遊びに行ったとき、化粧の話で盛り上がったな……。
姉からの「化粧をするのは高校に入ってから」という言いつけをしっかり守っているらしく、勉強に関する相談をしながらも、時たま「おすすめのプチプラ化粧品を教えて」とか「思春期のスキンケアってどーしてた?」とか着々とお化粧デビューの準備を進めていた。
「rom&ndのアイシャドウパレットとリップめっちゃ可愛いから欲しいんだけどねー……お小遣いだけじゃ高いし、お母さんにはちょっとお願いしずらいしなぁ。高校生になったらバイトしようかな? でも入りたい部活もあるしな……」
悶々と悩む彼女を思い出して、私は意気込んだ。
どうせ独り身の私だ。他に使うお金などないのだから、可愛い姪のために奮発しよう。
花音ちゃんなら絶対に喜んでくれるだろうな。
忘れもしない、14時46分。
思わず頬が緩んだ時、カタカタカタとキッチンの方から食器の揺れる音がした。
「――地震?」
そう呟いた次の瞬間、突然地面がゴゴゴゴゴと深く咆哮する。足元が揺れた。
「地震です。地震です」
警報音がうるさいくらいに部屋に反響する。
ばしゃん――シンクに置いていたコップが倒れ、水音がリビングにまで届く。
本が雪崩を起こして本棚がその上に倒れた。
大きく動く地面に立っていることすら出来ず、私は膝から崩れるように座り込む。
壁際のテレビが今にも倒れそうで、床を這って移動する。両手で不安定なテレビ台をがっしり抑えて、早く揺れが収まれと切に願う。
少しづつ揺れが収まって、ようやく立てるくらいになった。
私は即座にテレビを付けて新しい情報を求めた。
テレビにでかでかと表示された「津波警報」の4文字。
画面の向こうの側には地獄が広がっていた。
潰れた古民家と割れた道路。粉々の窓ガラスに傾いた電柱。ニュースキャスターの悲痛な報道や近所から聞こえる叫び声。
私はこの瞬間、生まれて初めて地獄を見た。心臓をぎゅっと強く掴まれて揺さぶられるような痛み。
言葉を失ってテレビの前に呆然と突っ立っていると、スマホが光って「姉さん」から電話が来ていることを知らせてくる。
「あ……もしもし、姉さん……?」
「志織! あんた無事!?」
放心状態で電話に出る私に、姉さんは必死になって声をかける。
「え、あぁ、うん。無事だよ。姉さんたちこそ……」
「私らは大丈夫よ。卒業式終わりだったから皆校庭に集まってて、ある意味ラッキーだったかもね」
「志織さん、大丈夫!? 津波来るんだってよ、志織さんとこ海に近いから早く避難してね!」
花音ちゃんの心配した声が電子音を辿って伝わってくる。
「うん、そうだね。私のアパートは危ないかもしれないから、山の方の公民館に避難するよ。でも姉さんたちも海岸沿いのとこだから避難した方がいいんじゃ……?」
心配になって聞いてみるが、姉さんはケラケラと笑う。
「だーいじょうぶだって。あっても6mそこららしいし、花音の学校がいくら二階建てでも、屋上にいときゃ問題ないよ」
「そーそー! だから志織さんの方が心配だよ!」
無邪気な声に私も少し心が落ち着いた。
そうだ、焦らず急いで避難しよう。
「そっか、屋上にいれば安心だね。じゃあ、私はちょっと避難してくるから、また後でかけるね!」
万が一の時のために避難リュックを準備しておいて良かった。過去の自分を褒めてやりたい。
最低限の荷物を持って、私は長年過ごしてきた部屋を飛び出した。
避難所に着いて電話をした時、姉さんは電話に出なかった。
きっと同じ避難者の人達がこぞって電話をするから電波が悪いんだろうと私は考えていた。
花音ちゃんの学校が津波で飲み込まれたと知ったのは避難所についてしばらくしてからだった。
津波は予測されていた6mを遙かに上回り、姉さんたちを遠い世界へ連れ去ってしまった。
神様、もし願いが1つかなうならば――
どうか、どうか災害に巻き込まれてしまった全ての人が、幸せでありますように――
No.12【願いが1つ叶うならば】
嗚呼、美しい。
彼女をひと目見た瞬間から、僕はその美麗な少女の虜になった。
高校1年生の春休み。終業式の翌々日。
部活の作品作りで必要な道具を持ち帰るため美術室に行った僕は、デッサン用の彫刻の隣に座っていた美少女に驚き、持っていた画材を床にばらまいてしまった。
透けるような白い肌。さらさらと風に靡く黒髪。ぱっちりとした二重まぶたと、吸い込まれそうなほど黒い瞳。
堕ちた――そう思ってしまったのだ。
彼女の頭上にある天使の輪。
ただ艶のある髪が日光を反射させてできるその光の輪が、僕に彼女が人間界へ堕ちてきた天使だと教えてくれた。
少女は動く気配がないものの呼吸をしているようで、ゆっくりと肩が上下して、たまに瞬きを繰り返した。
「君は誰……?」
思わずそう聞いてみたが、彼女はぱちくりと瞬きをするだけで口を開かない。
無意識に前へと進んでいた足が、散らばった絵の具を踏んだところで、僕ははっとする。
僕が画材をバックに詰め込んでいる間も、謎の少女は動かない。
何だか気味が悪くなり、後ずさった時、彼女が口を開いた。
「ねぇ、私を描いてくれない?」
No.11【嗚呼】
「美夜なら大丈夫。ほら、行ってらっしゃい」
優しく頭を撫でる大きな手。心の中心まで響いてくる落ち着いた声。目元にかかる黒髪越しに見える、焦げ茶の瞳。
私は彼の全部が大好きだ。
アパートにお隣さんが引っ越してきたのは、小学6年生の3月の終わり。あと数十日で中学生という期待に胸を膨らませていた頃のこと。
トラックがアパートの先の道路に止まって、お隣さんが急に騒がしくなった。
好奇心の塊だった当時の私は、もちろん気になってしょうがない。
けれど人見知りもあって、なかなか外に出れずに、椅子を使って玄関の覗き穴からじっと新しくやって来た隣人の様子を見ようと奮闘した。
もちろん、覗き穴なんてもので見ることは出来なかったけれど。
一日中そんな調子だったもので、挨拶回りでお隣さんが訪ねて来たときの私のテンションの上がりようは凄まじかったと思う。
「初めまして。今日隣に越してきた榎本敦です」
好青年という言葉がよく似合いそうな人だった。
高校入学のタイミングで一人暮らしを始めるようで、高校1年生のわりにはかなり大人びた印象があった。
爽やかな笑顔から、丁寧そうな人となりが漂っていて、私は一瞬でその人に惹き込まれた。
いわゆる『一目惚れ』と呼ばれているあれだ。
「あらあら、今日から1人で?」
「はい。引っ越しも全部自分でやることになってて」
そう眉尻を下げる彼を見た母は、名案とでも言うように指を立てる。
「なら我が家で食べてったらどうかしら? ちょうどさっき出張中の夫から夜は外で食べてくるって言われたのよ。もちろん敦くんが構わなければだけど……」
その日から彼は私の家族の一員も同然だった。
頻繁に我が家で食事を取ったり、彼の部活がない週末などは皆で遊びに行ったりもした。
私のピアノの発表会にもよく来てくれて、同じピアノ教室の子たちからは兄妹だと思われたりもした。
発表会の日の朝。彼は必ず私に魔法をかける。
「美夜なら大丈夫。ほら、行ってらっしゃい」
彼の大丈夫を聞くと、私は無敵になれた。
その言葉を聞く度に、私は彼を好きになった。
あれから何年経ったのか。時が過ぎるのはあまりにも早い。
私はプロのピアニストになった。
今日は大事なコンサートの日。失敗はできない。
「美夜なら大丈夫。ほら、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
頬に軽くキスをして、魔法の言葉を胸にしまって、私は一歩を踏み出した。
No.10【魔法】