――神様、一生に一度のお願いです。
どうか、どうかあの人たちを――
2011年3月11日
春とは名ばかりの、雪の降る日のこと。
凍える手先をストーブにかざして、私はぼーっとガラス越しに積もる白色を眺めていた。
明日の雪かきは大変だと呑気に考えていると、スマホの通知音が鳴り、画面に「姉さん」の三文字が浮かび上がる。
「そういや、花音ちゃんの中学って今日が卒業式だっけか?」
いつの間にか姉と同じくらいの身長になっている姪を見て、時が流れる早さを実感する。ディスプレイに写る姉家族の幸せそうな笑顔に、私の口角もつられて上を向いた。
卒業祝いは何がいいだろうか? そういえば前に姉さんのとこに遊びに行ったとき、化粧の話で盛り上がったな……。
姉からの「化粧をするのは高校に入ってから」という言いつけをしっかり守っているらしく、勉強に関する相談をしながらも、時たま「おすすめのプチプラ化粧品を教えて」とか「思春期のスキンケアってどーしてた?」とか着々とお化粧デビューの準備を進めていた。
「rom&ndのアイシャドウパレットとリップめっちゃ可愛いから欲しいんだけどねー……お小遣いだけじゃ高いし、お母さんにはちょっとお願いしずらいしなぁ。高校生になったらバイトしようかな? でも入りたい部活もあるしな……」
悶々と悩む彼女を思い出して、私は意気込んだ。
どうせ独り身の私だ。他に使うお金などないのだから、可愛い姪のために奮発しよう。
花音ちゃんなら絶対に喜んでくれるだろうな。
忘れもしない、14時46分。
思わず頬が緩んだ時、カタカタカタとキッチンの方から食器の揺れる音がした。
「――地震?」
そう呟いた次の瞬間、突然地面がゴゴゴゴゴと深く咆哮する。足元が揺れた。
「地震です。地震です」
警報音がうるさいくらいに部屋に反響する。
ばしゃん――シンクに置いていたコップが倒れ、水音がリビングにまで届く。
本が雪崩を起こして本棚がその上に倒れた。
大きく動く地面に立っていることすら出来ず、私は膝から崩れるように座り込む。
壁際のテレビが今にも倒れそうで、床を這って移動する。両手で不安定なテレビ台をがっしり抑えて、早く揺れが収まれと切に願う。
少しづつ揺れが収まって、ようやく立てるくらいになった。
私は即座にテレビを付けて新しい情報を求めた。
テレビにでかでかと表示された「津波警報」の4文字。
画面の向こうの側には地獄が広がっていた。
潰れた古民家と割れた道路。粉々の窓ガラスに傾いた電柱。ニュースキャスターの悲痛な報道や近所から聞こえる叫び声。
私はこの瞬間、生まれて初めて地獄を見た。心臓をぎゅっと強く掴まれて揺さぶられるような痛み。
言葉を失ってテレビの前に呆然と突っ立っていると、スマホが光って「姉さん」から電話が来ていることを知らせてくる。
「あ……もしもし、姉さん……?」
「志織! あんた無事!?」
放心状態で電話に出る私に、姉さんは必死になって声をかける。
「え、あぁ、うん。無事だよ。姉さんたちこそ……」
「私らは大丈夫よ。卒業式終わりだったから皆校庭に集まってて、ある意味ラッキーだったかもね」
「志織さん、大丈夫!? 津波来るんだってよ、志織さんとこ海に近いから早く避難してね!」
花音ちゃんの心配した声が電子音を辿って伝わってくる。
「うん、そうだね。私のアパートは危ないかもしれないから、山の方の公民館に避難するよ。でも姉さんたちも海岸沿いのとこだから避難した方がいいんじゃ……?」
心配になって聞いてみるが、姉さんはケラケラと笑う。
「だーいじょうぶだって。あっても6mそこららしいし、花音の学校がいくら二階建てでも、屋上にいときゃ問題ないよ」
「そーそー! だから志織さんの方が心配だよ!」
無邪気な声に私も少し心が落ち着いた。
そうだ、焦らず急いで避難しよう。
「そっか、屋上にいれば安心だね。じゃあ、私はちょっと避難してくるから、また後でかけるね!」
万が一の時のために避難リュックを準備しておいて良かった。過去の自分を褒めてやりたい。
最低限の荷物を持って、私は長年過ごしてきた部屋を飛び出した。
避難所に着いて電話をした時、姉さんは電話に出なかった。
きっと同じ避難者の人達がこぞって電話をするから電波が悪いんだろうと私は考えていた。
花音ちゃんの学校が津波で飲み込まれたと知ったのは避難所についてしばらくしてからだった。
津波は予測されていた6mを遙かに上回り、姉さんたちを遠い世界へ連れ去ってしまった。
神様、もし願いが1つかなうならば――
どうか、どうか災害に巻き込まれてしまった全ての人が、幸せでありますように――
No.12【願いが1つ叶うならば】
3/10/2025, 2:19:54 PM