アキヤ

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2/23/2025, 11:24:23 PM

「美夜なら大丈夫。ほら、行ってらっしゃい」
 優しく頭を撫でる大きな手。心の中心まで響いてくる落ち着いた声。目元にかかる黒髪越しに見える、焦げ茶の瞳。
 私は彼の全部が大好きだ。

 アパートにお隣さんが引っ越してきたのは、小学6年生の3月の終わり。あと数十日で中学生という期待に胸を膨らませていた頃のこと。
 トラックがアパートの先の道路に止まって、お隣さんが急に騒がしくなった。
 好奇心の塊だった当時の私は、もちろん気になってしょうがない。
 けれど人見知りもあって、なかなか外に出れずに、椅子を使って玄関の覗き穴からじっと新しくやって来た隣人の様子を見ようと奮闘した。
 もちろん、覗き穴なんてもので見ることは出来なかったけれど。
 一日中そんな調子だったもので、挨拶回りでお隣さんが訪ねて来たときの私のテンションの上がりようは凄まじかったと思う。
「初めまして。今日隣に越してきた榎本敦です」
 好青年という言葉がよく似合いそうな人だった。
 高校入学のタイミングで一人暮らしを始めるようで、高校1年生のわりにはかなり大人びた印象があった。
 爽やかな笑顔から、丁寧そうな人となりが漂っていて、私は一瞬でその人に惹き込まれた。
 いわゆる『一目惚れ』と呼ばれているあれだ。
「あらあら、今日から1人で?」
「はい。引っ越しも全部自分でやることになってて」
 そう眉尻を下げる彼を見た母は、名案とでも言うように指を立てる。
「なら我が家で食べてったらどうかしら? ちょうどさっき出張中の夫から夜は外で食べてくるって言われたのよ。もちろん敦くんが構わなければだけど……」
 その日から彼は私の家族の一員も同然だった。
 頻繁に我が家で食事を取ったり、彼の部活がない週末などは皆で遊びに行ったりもした。
 私のピアノの発表会にもよく来てくれて、同じピアノ教室の子たちからは兄妹だと思われたりもした。
 発表会の日の朝。彼は必ず私に魔法をかける。
「美夜なら大丈夫。ほら、行ってらっしゃい」
 彼の大丈夫を聞くと、私は無敵になれた。
 その言葉を聞く度に、私は彼を好きになった。

 あれから何年経ったのか。時が過ぎるのはあまりにも早い。
 私はプロのピアニストになった。
 今日は大事なコンサートの日。失敗はできない。
「美夜なら大丈夫。ほら、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
 頬に軽くキスをして、魔法の言葉を胸にしまって、私は一歩を踏み出した。

No.10【魔法】

2/22/2025, 12:34:26 PM

 私が空を見上げる時、空は必ず泣いていた。
 今日もまた、薄暗くなった世界の始まりを見上げては、私はじっとその時を待つ。
 大粒の涙が顔に落ちては、頬を伝って地面を濡らしていく感覚がした。
 どんよりとした雲が真っ青な空を隠して、私には顔すら見せてくれないみたいだ。

「虹は雨と太陽からのプレゼントなんだよ」

 あの日の言葉が鮮明に思い出された。
 幼い頃のおぼろげな、けれども確かな記憶。
 虹というのは、泣いている空を励ますために、太陽が空へ贈ったプレゼントなんだ――なんて、当時の私は本気で信じていた。
 けれど光の屈折から発生する自然な現象だと知った今でも、私は雨が降る度につい空を見上げてしまう。
 雨が降るだけでは虹はできない。
 太陽の光が雨粒に反射することで虹は生まれるのだ。
 雨上がりの空に浮かぶ虹は、この世の全てを写し出している気がする。
 喜びの色、悲しみの色、驚きの色、怒りの色……それは、七色では数え切れないほど沢山の想いが詰まっているに違いない。
 虹は雨と太陽からのプレゼントだ――今ならこの言葉の本当の意味が分かる気がする。
 雨はそれまでの自分を洗い流してくれて、太陽がこれからの道を示してくれる。
 虹は私に、「大丈夫、仲間はいるよ」と広大な空の下で共に暮らす住人たちを教えてくれる。
 独りじゃないよと、上を向く理由をくれる。
 これをプレゼントと言わずになんと言うのだろう?

 こんなに堂々と語っている私を知ったら、あの人はきっと笑うに違いない。
 虹のように弧を描いた二つの目で、優しく私を抱きしめてくれるはずだ。

No.9【君と見た虹】

11/30/2024, 12:10:41 AM

 あつあつに温められたコンビニのおでん。顔の半分が埋まるくらいまてぐるくるに巻いたマフラー。少しせかせかしだす街の雰囲気。
 冬の空気を肺にいっぱい取り込んで、白い息と共に吐いてみる。
 冷たい空気が体を冷やす。
 ああ、冬がやってきた。
 つい昨日まではヒートテック1枚で外出できたはずなのに、今日はダウンまで着込まないと家から1歩も外に出ることが出来ない。
 私の大好きな季節が始まった。


No.8【冬のはじまり】

11/19/2024, 1:33:03 PM

 キャンドルの火が消えた。
 冬の夜。月灯りのない午前3時のことだった。
 なかなか寝付くことができずに、ぼーっと天蓋越しの揺れるオレンジを見つめていた時、ふっと暗闇が訪れた。
 普段なら使用人を呼んでキャンドルを変えるのだが、今日はなんだかそんな気分にもなれず、かと言って灯りのない部屋でぼーっとする気分でもなく、そっとベッドから身を起こした。
 天蓋を開けて窓の方へと歩を進める。
 当然、月なんて見当たる訳もなく、けれども漆黒の夜空には満天の星空が広がっていた。
 それはまるで、星々が一つ一つ、空に吊り下げられた小さなキャンドルのようで、吸い込まれてしまいそうなほど綺麗な夜空だった。
「まぁ、こういう日も悪くないんじゃないかしら」
 ぽつりとこぼした一言は拾われることなく溶けていく。
 その言葉に肯定するかの如く、1番光り輝いていた星がきらりと瞬いた。

No.7【キャンドル】

9/2/2024, 10:48:59 AM

最初は小さな小さな炎だった。
誰も気づかないほどひっそりと、自分ですらも気づけないほどの小さな想いが心に芽吹いた。
――あの人と喋ってみたい。
小さな好奇心に突き動かされて、気がつけば、私は先の見えない霧の中へと足を踏み入れていた。
彼の言動に心が揺さぶられて、一挙手一投足にまで意味を見出そうとしていて。
けれども彼は私のそんな想いに気づくはずがない。
彼は当たり前のように私の前を通り過ぎる。それがどれほど私の心を乱しているのかも知らないで。

「きっと可愛いと思うよ」

彼はそんな言葉も忘れているだろう。
私が長年連れ添ってきたロングヘアに別れを告げて、バッサリとショートカットにしてきた日。彼は驚きで目を丸めていた。

「その髪、どうしたの?」

とっても不思議そうに聞く彼の顔を見て、私は確信した。
あぁ、この想いは一方通行なんだと。

No.6【心の灯火】

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